『一九八四年』ジョージ・オーウェル

『一九八四年』ジョージ・オーウェル

1949年の出版以後、多くのディストピア小説や映画があったので既視感すら覚えるが、こちらが本家本元。すべてはこの小説から始まった。

プロパガンダと市民監視の道具である「テレスクリーン」。強制ではなく自ら望んで熱狂する「二分間憎悪」。子が親を告発する社会。こうした息詰まる監視社会の描写は、現代史のひとコマであり、今日の日常であることに慄然とする。

いわく、街にあふれる監視カメラ、インターネット、ヘイトスピーチ、カンボジアのキリングフィールド、中国の文化大革命。これらはすべてこの小説以降の出来事なのだ。

この小説のテーマは「権力」である。そして「記録の改ざん」であろう。記録を修正すれば事実を変えることができる。物理現象も変えることができる。科学でさえも変えることができる。

米国発の「フェイクニュース」といいう言葉を挙げるまでもなく、日本でも森友学園・加計学園事件で官僚による記録改ざんがあったことを思い出す。政治家の指示によって官僚が事実を改ざん・隠蔽するというのが珍しいことではないのが今日の日本社会だ。

なのでオーウェルが描いたディストピア・悪夢の社会が、ことごとく現実となっていることをあらためて認識する、そのためにも本書は読まれ続けなければならない名著である。

ところで、第二章にあるゴールドスタインの論文「寡頭制集産主義の理論と実践」の長々とした引用は権力者による社会管理の指南書として秀逸である。ここで主に語られているのは、権力者が戦争の危機を社会管理にいかに活用するかということだ。これは権力の暴力を現場で体験し続けてきたオーウェルの彗眼であろう。

(前略)そのような国家の支配者達は、古代エジプトの王やローマ皇帝以上に専制的である。彼らは、不都合を生じるほど大量の民衆が、飢えによって死ぬといった事態を防がねばならないし、ライバル国と同程度の、低い軍事技術を保たねばならない。だが最小限の条件が達成できれば、後は好きなだけ現実を歪曲できるのである。

従って、過去の基準から判断するならば、現在の戦争は単なる詐欺行為に過ぎない。それは譬えて言うなら、相手を傷つけえない角度に角を生やした反芻動物同士が戦っているようなものである。そうした戦争は、現実味に欠けるかもしれないが、無意味ではない。消費物資の余剰を使い果たし、階級社会が必要とする特殊な心理的環境を維持する役目を果たしてくれる。いずれ判明するだろうが、戦争は今では純粋に国内問題なのである。過去には、あらゆる国の支配集団は、たとえ自分たちの共通利害を悟り、それ故戦争による破壊を制限したとしても、互いに激しく戦い、勝者は必ず敗者の略奪行為に及んだものだ。我々の時代にあっては、そもそも国同士が戦いを交えていないのだ。現在の戦争とは、支配集団が自国民に対して仕掛けるものであり、戦争の目的は、領土の征服やその阻止ではなく、社会構造をそっくりそのまま保つことにある。従って、「戦争」という言葉自体が、誤解を招いてきた。継続化によって、戦争は存在しなくなったと言った方が正確かもしれない。新石器時代から二十世紀初頭にかけて戦争が人間に与えてきた特殊な圧力は消滅し、まったく違ったものに取って代わられた。たとえ三つの超大国が、争い合う代わりに、恒久的な平和のなかで生きていくということで意見の一致を見、互いに相手国の領地は侵犯しないようにしたまぬかところで、結果は大して変わらないだろう。なぜなら、そうした場合でも各国は相変わらず自己充足的な世界として留まり続け、外部からの危険という浮かれた頭に冷水を浴びせるような事態からは、永遠に免れているからである。真の恒久平和とは、永遠の戦争状態と同じということになるだろう。これこそが、戦争は平和なりという党のスローガン―――大多数の党員は、ごく表面的な意味でしか理解していないが―――の隠された意味なのである。