『闇の左手』アーシュラ・K・ル・グィン

『闇の左手』アーシュラ・K・ル・グィン

古典SF(1969年刊)の名作中の名作。古典とはいつ読んでもあらためて感動を得られるものと認識した。

遥かな未来、はるかな遠くにある惑星。ここに人類の末裔の文明があり、その閉ざされた社会へ人類の使節が交易を求めてひとり降り立った。しかし、その人類は雌雄同体であり、その生理機能によって成り立つ社会もまた異様なものであったというプロット。

本書はその文明や社会の成り立ちをいち異人として体験し記録するという部分が素晴らしい。また、章間に挟まれる伝説物語も興味深い。そして何よりも異なる文明同士の人間が誤解し合い解釈を違えたりする。しかし、やがては個人間の相互理解の深まりを暗示させる長い道行きの物語が感動的である。

しかし、この小説で本当に重要な要素は、違う文明が理解し合うことの困難さを小説という手法を駆使して表現していることだろう。固有名詞はもちろん、暦や時間の表現、ゲセン人のそれぞれの生理現象についての言葉、意識、宗教についての言葉が小説中に遠慮なく放り出される。

そこに、そもそもひとつの文明について理解することは簡単なことではない。読者もそれなりの苦難を分け持つべきだとの作家としての意識が感じられる。そして、本書の作者が小説の手法によって、そのことを伝えようとする苦難そのものが本書の読みどころではないだろうか。

異世界モノがお手軽に作品になる今日、都合のいいフレームワークとしてそれを利用しているものが多く、文明理解そのものへの取り組みが見られない。それでいいのだろうかとは思っている。

ところで、古典作品では当時読んでも深く響いてこなかったことが今日の視線では大きな声になっていることに気づくことがある。本書で言えばジェンダー意識である。

ゲセン人は雌雄同体であり、月のうち何日か交接可能な期間(ケメル)がある。それ以外は発情状態にならない。常時発情状態あるわれわれは彼らにとっては「変態」なのだ。

そして、ゲセン人はそのケメル期に男性となるのか女性となるのかを選ぶことはできない。よってすべての人間に母親として妊娠する可能性があり、また父親になる可能性がある。

このような人類によって構成される社会はいかなるものなのだろうか。まさにSF的テーマ設定であり、その考察も知的満足を満たしてくれるものである。

その考察については詳しくは書かないが、極めて今日的ジェンダー課題の設定である。本書が1969年に書かれたことに驚くばかりだ。