『動物農場』ジョージ・オーウェル
1984年当時はこちらの方が『一九八四年』よりも評価が高かったのはなぜだろう。レーニン批判とソ連への幻滅が顕になった時期だったからか。今日ではSFの文脈とMacintoshのCMのせいかこちらを知らなくても『一九八四年』は知っている者は多い。
読んでみると確かにすべての革命への幻滅という意味で、ロシア革命のみならず普遍的な内容である。しかし、重厚さ、熱意という意味で後者が勝る。それが読んでみての感想である。
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『動物農場』ジョージ・オーウェル
1984年当時はこちらの方が『一九八四年』よりも評価が高かったのはなぜだろう。レーニン批判とソ連への幻滅が顕になった時期だったからか。今日ではSFの文脈とMacintoshのCMのせいかこちらを知らなくても『一九八四年』は知っている者は多い。
読んでみると確かにすべての革命への幻滅という意味で、ロシア革命のみならず普遍的な内容である。しかし、重厚さ、熱意という意味で後者が勝る。それが読んでみての感想である。
『闇の左手』アーシュラ・K・ル・グィン
古典SF(1969年刊)の名作中の名作。古典とはいつ読んでもあらためて感動を得られるものと認識した。
遥かな未来、はるかな遠くにある惑星。ここに人類の末裔の文明があり、その閉ざされた社会へ人類の使節が交易を求めてひとり降り立った。しかし、その人類は雌雄同体であり、その生理機能によって成り立つ社会もまた異様なものであったというプロット。
本書はその文明や社会の成り立ちをいち異人として体験し記録するという部分が素晴らしい。また、章間に挟まれる伝説物語も興味深い。そして何よりも異なる文明同士の人間が誤解し合い解釈を違えたりする。しかし、やがては個人間の相互理解の深まりを暗示させる長い道行きの物語が感動的である。
しかし、この小説で本当に重要な要素は、違う文明が理解し合うことの困難さを小説という手法を駆使して表現していることだろう。固有名詞はもちろん、暦や時間の表現、ゲセン人のそれぞれの生理現象についての言葉、意識、宗教についての言葉が小説中に遠慮なく放り出される。
そこに、そもそもひとつの文明について理解することは簡単なことではない。読者もそれなりの苦難を分け持つべきだとの作家としての意識が感じられる。そして、本書の作者が小説の手法によって、そのことを伝えようとする苦難そのものが本書の読みどころではないだろうか。
異世界モノがお手軽に作品になる今日、都合のいいフレームワークとしてそれを利用しているものが多く、文明理解そのものへの取り組みが見られない。それでいいのだろうかとは思っている。
ところで、古典作品では当時読んでも深く響いてこなかったことが今日の視線では大きな声になっていることに気づくことがある。本書で言えばジェンダー意識である。
ゲセン人は雌雄同体であり、月のうち何日か交接可能な期間(ケメル)がある。それ以外は発情状態にならない。常時発情状態あるわれわれは彼らにとっては「変態」なのだ。
そして、ゲセン人はそのケメル期に男性となるのか女性となるのかを選ぶことはできない。よってすべての人間に母親として妊娠する可能性があり、また父親になる可能性がある。
このような人類によって構成される社会はいかなるものなのだろうか。まさにSF的テーマ設定であり、その考察も知的満足を満たしてくれるものである。
その考察については詳しくは書かないが、極めて今日的ジェンダー課題の設定である。本書が1969年に書かれたことに驚くばかりだ。
『一九八四年』ジョージ・オーウェル
1949年の出版以後、多くのディストピア小説や映画があったので既視感すら覚えるが、こちらが本家本元。すべてはこの小説から始まった。
プロパガンダと市民監視の道具である「テレスクリーン」。強制ではなく自ら望んで熱狂する「二分間憎悪」。子が親を告発する社会。こうした息詰まる監視社会の描写は、現代史のひとコマであり、今日の日常であることに慄然とする。
いわく、街にあふれる監視カメラ、インターネット、ヘイトスピーチ、カンボジアのキリングフィールド、中国の文化大革命。これらはすべてこの小説以降の出来事なのだ。
この小説のテーマは「権力」である。そして「記録の改ざん」であろう。記録を修正すれば事実を変えることができる。物理現象も変えることができる。科学でさえも変えることができる。
米国発の「フェイクニュース」といいう言葉を挙げるまでもなく、日本でも森友学園・加計学園事件で官僚による記録改ざんがあったことを思い出す。政治家の指示によって官僚が事実を改ざん・隠蔽するというのが珍しいことではないのが今日の日本社会だ。
なのでオーウェルが描いたディストピア・悪夢の社会が、ことごとく現実となっていることをあらためて認識する、そのためにも本書は読まれ続けなければならない名著である。
ところで、第二章にあるゴールドスタインの論文「寡頭制集産主義の理論と実践」の長々とした引用は権力者による社会管理の指南書として秀逸である。ここで主に語られているのは、権力者が戦争の危機を社会管理にいかに活用するかということだ。これは権力の暴力を現場で体験し続けてきたオーウェルの彗眼であろう。
(前略)そのような国家の支配者達は、古代エジプトの王やローマ皇帝以上に専制的である。彼らは、不都合を生じるほど大量の民衆が、飢えによって死ぬといった事態を防がねばならないし、ライバル国と同程度の、低い軍事技術を保たねばならない。だが最小限の条件が達成できれば、後は好きなだけ現実を歪曲できるのである。
従って、過去の基準から判断するならば、現在の戦争は単なる詐欺行為に過ぎない。それは譬えて言うなら、相手を傷つけえない角度に角を生やした反芻動物同士が戦っているようなものである。そうした戦争は、現実味に欠けるかもしれないが、無意味ではない。消費物資の余剰を使い果たし、階級社会が必要とする特殊な心理的環境を維持する役目を果たしてくれる。いずれ判明するだろうが、戦争は今では純粋に国内問題なのである。過去には、あらゆる国の支配集団は、たとえ自分たちの共通利害を悟り、それ故戦争による破壊を制限したとしても、互いに激しく戦い、勝者は必ず敗者の略奪行為に及んだものだ。我々の時代にあっては、そもそも国同士が戦いを交えていないのだ。現在の戦争とは、支配集団が自国民に対して仕掛けるものであり、戦争の目的は、領土の征服やその阻止ではなく、社会構造をそっくりそのまま保つことにある。従って、「戦争」という言葉自体が、誤解を招いてきた。継続化によって、戦争は存在しなくなったと言った方が正確かもしれない。新石器時代から二十世紀初頭にかけて戦争が人間に与えてきた特殊な圧力は消滅し、まったく違ったものに取って代わられた。たとえ三つの超大国が、争い合う代わりに、恒久的な平和のなかで生きていくということで意見の一致を見、互いに相手国の領地は侵犯しないようにしたまぬかところで、結果は大して変わらないだろう。なぜなら、そうした場合でも各国は相変わらず自己充足的な世界として留まり続け、外部からの危険という浮かれた頭に冷水を浴びせるような事態からは、永遠に免れているからである。真の恒久平和とは、永遠の戦争状態と同じということになるだろう。これこそが、戦争は平和なりという党のスローガン―――大多数の党員は、ごく表面的な意味でしか理解していないが―――の隠された意味なのである。
『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド
19世紀初頭、奴隷制度下のアメリカで奴隷である少女コーラの過酷な逃避行を描いた小説。現代のアメリカ文学である。
奴隷であることについては大量の映画、ドラマ、ルポ、ドキュメンタリーがあるが、小説は一体化、没頭感という強みがある。
奴隷として生まれたこと、自由な身分から奴隷になること、そしてそこから逃走するということ。小説を読むという行為はそれを精神的に体験することでもある。この小説はそうして体験するべきものである。
「地下鉄道」という組織や制度のことを地下を走る実際の鉄道路に見立てては小説の組み立てとして秀逸。
それにしてもあまりにも悲惨な黒人奴隷の時代を描くと、どうしても語り口が神話的雰囲気を帯びてしまう。それは現代の作家の性なのだろうか。
『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』吉田裕
日本軍および将兵の研究書は多くあり、この本も特に新しい調査・研究成果があるわけではない。しかし、繰り返しこの無意味な悲惨を語り続けることにこそ価値がある。「本当は強かった日本軍隊」がまことしやかに受け止められている現代にこそ。
戦病死と餓死、海没死と特攻、自殺と処置、兵士の体格、病んでいく精神、装備・銃器・戦車の彼我の差の拡大、当局の対応の不在、時代遅れの通信機器。特に虫歯の件は壮絶。
「行軍中、歯磨きと洗顔は一度もしたことがなかった。万一、虫歯で痛むときは、患部にクレオソート丸(現在の正露丸)を潰して埋め込むか、自然に抜けるのを待つという荒療治である。(後略)」
実証的調査研究から明らかなこれらの事実に現在の「夢見る者たち」はどのように答えているのだろうか。
むしろそれら、単純に見たくないものを見ない、なかったことにする現代の「夢見る者たち」の精神構造こそ興味深いのではないかと思う。
『DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機』ベス・メイシー
『ペイン・キラー/死に至る薬』を観て読むことにした一冊。オピオイド危機の導入からパデュー社裁判の判決、さらに今日になっても未だ終わらない危機と悲劇についても取り上げている。
特筆すべきなのは、薬物依存治療として「ハーム・リダクション(被害の低減)」を挙げていること。
治療に当たってはかつてナンシー・レーガンが言った(Just say no)、薬物を一切断つという方法は、実は効果が低いことが支援者の間では認知されている。
つまり適切な薬品を適度に摂取しながら社会復帰を目指すべきとの考えで、これが一般的になりつつある。しかし、まだ一般社会では否定的な見方もすくなくないとのこと。
ところで、本書にあるように米国の製薬会社のマーケティング手法には決定的に倫理観が欠けていると言わざるを得ない。
製薬会社の営業担当は「最近工場が閉鎖し、失業者の多い地方」「その地方の医師」をターゲットに営業攻勢をかけるべきとしている。つまり、失業者は習慣性ある麻薬依存者として最適な対象であるという意味だ。これはまさに、企業による麻薬ディーラー事業ではないか。
これが資本主義の行き着く果であれば米国社会は紛れもなく最先端を行っていると言える。
偶然YouTubeでフィラデルフィアの街角を毎日レポートしているチャンネルを見つけて定期的に見ているのだが、その荒廃ぶりに愕然とした。これが薬物蔓延の日常である。
『ペイン・キラー アメリカ全土を中毒の渦に突き落とす、悪魔の処方薬』バリー・マイヤー
こちらも『ペイン・キラー/死に至る薬』を観て読むことにした一冊。『DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機』より出版時期は早いが取り上げている範囲はこちらの方が広範。
これだけ巨大な社会事件となると登場人物も多種多様である。
巨大製薬企業の役員はもちろん、規制当局(FDA)、取締機関(DAE)、製薬会社の営業員、非道徳的な医者、薬剤師、そして患者、麻薬依存者とその家族。事態に対応する医師、活動家。告発に動く検事と思惑で動く司法長官。そしてサックラー家。企業と名門家を金とコネで守るためにうごめく弁護士たち。それにこの事件で忘れてはならないのは米国の保険会社。彼らもまたこの悲劇に大きな役割を担ったのである。
そうしたプレーヤーが活動する舞台には企業の役員室、営業戦略とマーケティング戦略を立案する現場、企業と司法当局のやりとり、判決を下す裁判所がある。それから地方クリニックの診察室や薬局、学校とそれぞれの家庭、街角。さらにはリハビリ施設や支援団体の現場も。
事件の流れは、まずオキシコンチンの開発、それに続くFDAによる販売認可、その製品のラベルの文言とマーケティング手法の認可がある。そして製造販売の開始。それが平和だった地方都市に多くの不幸をはびこらせ、荒廃させ、多くの若者を死なせ、家族の苦悩をもたらした。
そうした事件の一連の流れに見られるのは、FDA、DAEら行政機関の機能不全だ。もし、オクシコンチンが認可されていなければ。もし、そのマーケティング手法が禁止されていればこうした広範囲な薬害は発生しなかっただろう。そして多くの麻薬依存者も過剰摂取による死者も発生しなかったのだ。
ようやく司法の裁きを下す時になっても、「司法取引」という極めて不十分な罰則しか適用できないという結果は多くの被害者を落胆させた。結局、パデュー・ファーマ社の役員もサックラー家も逃げ切ったということだ。
本書で指摘しているが、もし公判ということになれば少なくとも同社のオクシコンチン製造と販売にまつわる膨大な資料が証拠として公開されただろう。「司法取引」によってその証拠が闇に葬られた。そのことで、米国社会はこうしたことが二度と起こらないようにするにはどうしたらいいのか、それを学ぶ貴重な機会が失われてしまった。
このオピオイド事件が発生から23年経ち、パデュー・ファーマ社が破産宣告したことで事件は終息したのかというとまったくそうではない。さらに強い麻薬の蔓延を招いているのが今日の状況である。
米国社会もそうであるが日本でもこうした事件について忘却することは許されないだろう。本書はこの事件について広範にカバーする良書である。
『ザ・ファーマシスト: オピオイド危機の真相に迫る』Netflix
全米に悲劇を撒き散らしたオピオイド事件に関するドキュメンタリーシリーズ。『ペインキラー』は事実に基づくドラマだがこちらはドキュメンタリー。
主人公は薬剤師。息子がオキシコンチン中毒になり麻薬ディーラーに銃撃されて死亡。導入はその銃撃事件の真相究明が主要なテーマである。
その後彼はこの事件の背景に広範な薬害事件があることに気づき、そしてそれに取り憑かれるようになる。
やがて自分の住むニューオリンズ地域で無差別に処方箋を配布する医師がいることに気づき、そして、彼は一人の薬剤師としてその医師を告発する活動にのめり込んでいくというドキュメンタリー。
その麻薬中毒者を蔓延させ拡張していくシステムに慄然とする。中毒者はオクシコンチン欲しさに処方箋を出してくれる医師を探し、処方箋を持って薬局に行く。なので処方箋そのものが中毒者にとっては価値のあるものとなり取引の対象にもなり略奪の対象にもなる。。
処方箋を気軽に出してくれる医師は彼らにとって貴重。一方、モラルのない医師にとってもオクシコンチンの大量処方は手っ取り早く患者を集める手法でもある。
さらに製薬会社の販売員が医師にオクシコンチンを処方するための動機を提供し、麻薬を処方することへの歯止めを営業トークによって排除していく。
そもそもその中毒者は本来普通の市民であって、信頼していた医師が痛み止めとして処方した薬によって麻薬中毒となってしまった例が多いことも忘れてはならない。
それにしても米国人の薬剤使用へのハードルの低さや、依頼心の強さは不思議に思えるほどだ。
富裕層の高校生ではバッグに入った錠剤を回し飲みするパーティが一般的であり、そこでためらうことは「男らしくない」「勇気がない」と思われることになるらしい。
米国の若者における薬品への嗜好性というのも興味深い社会的テーマではないか。
『ペイン・キラー/死に至る薬』Netflix
20世紀終わりから今日にかけて米国に死と荒廃をもたらしたオピオイド薬害事件。その事件を当事者双方(製造販売した製薬会社と、中毒によって人生が破綻してしまった市民)から描いたドラマシリーズ。
製薬会社の倫理観の不在、規制当局の機能不全、破滅を促進する保険システムが一方にあり、麻薬には縁のなかった地方都市の中間層・富裕層が医師の処方した薬によって中毒患者となっていく過程が描かれる。
この薬『オキシコンチン』の認可と広告内容の認可の過程には驚くばかりである。私にはこれについての知識がないが、日本では起こり得ないシステムになっているのではないか。そうであってほしい。
真面目な自動車修理工場の経営者が中毒になっていく様子はまさに救いようがない。当事者もその周囲も不幸にするのが麻薬だとは言われるが、彼の場合は信頼していた医師の処方した薬が原因なのだ。
それに対して『オキシコンチン』製造元のパデューファーマ社の経営陣はお気楽な凡人として描かれる。「その機会があってたくさんのお金を稼ぐことの何が良くないのか」という飄々とした表情をしている。
その中でパデュー社の社長であるリチャードは小心者ながら憎めない人物として描かれている。叔父の幽霊と二人三脚で大企業を取り回していく様は軽妙でさえある。演じるマシュー・ブレデリックは良いアクセントになっている。
本作は事実に基づいたフィクションであるが、これだけ有名な事件であればドラマ化は真面目一辺倒という訳にはいかなかったのであろう。
それはそれとして、事件の一応の決着としての裁判の判決と、この広範な事件がまだ継続していることに慄然とした。
「この世界が消えたあとの 科学文明のつくりかた」ルイス ダートネル
何らかの原因で世界が破滅してから生き残った人類が科学文明を取り戻すためのノウハウ集。
農業、紡績、製鉄、発電、印刷、電気通信などの技術とそれを支える科学の成分分解が興味深い。しかし、破滅後にも消えない問題としてメルトダウンした原発の廃炉について触れないのが納得いかない。
また、それらの科学と技術の展開を実現するための社会体制について章を割いてほしかった。プロテスタント思想と人権、民主制度は急速な科学技術発展の基礎となるものではないか。
それから大災害直後の残された資源について、スーパーにある缶詰や乾電池について触れるのなら膨大にあるであろう人間の屍体の活用方法についても検討するべきではなかったか。