『当事者は嘘をつく』小松原織香
アート系イベントへのお出かけとみた映画、読んだ本の記録です。
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映画『瀑布』Netflix
パンデミック下で精神を病んで行く母、そしてその娘を描いた映画。この上なく沈鬱だが台湾映画の深みと実力をいかんなく発揮した傑作である。
カメラのほとんどが母娘が暮らす台北の高級マンションの室内。しかもパンデミックでマスク姿が多い。見てて息が詰まる。
それに母は離婚した夫にこだわりを持っており、勤務先の外資系企業からリストラされ、あげくは鬱病を発症。思春期の娘もやっかいな性格。
ということで前半は陰々滅々で途中で観るのを止める人も多いのではないか。
しかし、全編を通じて人生の機微を画面いっぱいに展開してくれるところがこの監督の素晴らしいところ。前作の「ひとつの太陽」でもそうだった。
外壁工事の覆いが取り去られた後の室内の光。同じ部屋を撮ってるのにこの表現。
映画の4大要素、「演技、脚本、カメラ、音声」がこの映画ではどれも素晴らしい。まさに台湾映画の実力をいかんなく発揮している。
同調意識に寄り掛かる日本映画、過剰に振れがちな韓国映画とも違う。深みがあり観るもの感性を信頼するのが台湾映画。この映画ではそれが充分に堪能できる。
また、最後のエピソードがともすれば付け足しのように見えるが、それでも納得感と充足感を持って終わることが出来るのが作品の力。
台湾映画はもっと世界的に評価されてもいいと再認識した。
映画『17歳の瞳に映る世界』
フィラデルフィアの少女が堕胎のため、従姉妹とふたりでニューヨークへ行くという物語。
期待せぬ妊娠、そして堕胎について残酷ではあるが極めて誠実な映画である。この映画が必要な人にしっかりと届けばいいのにと思った。
映画ではこの少女の妊娠の原因(相手の男性)については一切説明されない。そして、(そんなことは)する必要もないというメッセージが伝わってくる。
地元の病院でもそれなりに配慮はある(しかし州法でこれは禁止)。なので(親には黙って)バスを乗り継いで出かけるニューヨークの病院でも親切らしき人はいて、世話を焼いてくれそうな人もいる。
しかし、少女たちはことごとくこれを拒絶する。
「泊まるとこあるの。ニューヨークのホテルは高いわよ。よければボランティアを紹介するけど」
「自分たちで何とかします」
すべての大人社会、そして男に対する拒絶が根本的・徹底的にある。そうした感覚がビンビンと伝わってくるし、それは物語の最後まで一貫している。
原題が「Never Rarely Sometimes Always」。「全然ない、極めてまれに、時々、いつも」。これはカウンセラーが彼女に聞く質問の答えで、彼女はこのどれかで答えなくてはならない。
「セックスを誰かに強制されたことはある?」
「相手がコンドームの使用を拒否したことはある?」
等々。
これはその原因がレイプだった場合のセカンドレイプを避けるため。解答を限定するという配慮だという。
このシーンを見て、これはそのプロセスを体験する可能性のある者(すべての女性?)にとって極めて実質的かつ実際的な資料となるのではないだろうか。
限られた時間で当事者が必要な意思確認を冷静にするための、現場からの体験に基づいたプロセス。作家や活動家や評論家や学者が空想したことでなく、実際の現場からの効率的な手法。
だからこそ悲惨な現実の「現場」からのこの物語が必要な人々に確実に届けばいいのにと思うのだ。この作家は誠実な人だと思う。
米最高裁で堕胎に関する権利判決が揺れている昨今である。女性の体については女性自身が決めるべきであるとあらためて感じた。
映画『行き止まりの世界に生まれて』
イリノイ州・ロックフォードに生まれた3人のスケボ少年。その過去と現在を追ったドキュメンタリー映画。
そのひとりが本作の監督だからこそ、この希望のない社会でスケボを通じて結びついた少年たちの内面をストレートに聞くことができて、しかも素直な言葉が帰って来たのだろう。
大人がカメラを持ってきてもこんな言葉や表情は捉えられない。そこに本作の価値があるのだと思う。
日本でも最近では自分の家族や兄弟など、密接な関係にカメラを持ち込むドキュメンタリーは多くなった。それは濃密すぎてときに辟易とすることも多いが、見る者に澱のように何かが溜まるのは確かだろう。
これが21世紀のドキュメンタリーの形なのだ。これを見る度に旧世代作家の創り込みが見苦しいものに見えてくる。
一方、カメラの高解像度化がこうした心象的に濃密な映像に向かうとは誰も思っていなかったのではないだろうか。これらは作品と言うよりは心象スケッチあるいは私小説とも呼びたくなるものではある。
映画『アメリカン・ユートピア』デイヴィッド・バーン
『ストップ・メイキング・センス』が1984年だったから35年ぶりのデヴィッド・バーンのライブ映画。監督はスパイク・リー。
『ストップ…』が素晴らしくってDVDで何度も見たが今ではYouTubeで全編いつでも見られる状態になった。あの地明かりの素のステージから曲ごとにミュージシャンや楽器が出てきて出来上がっていくという構成にすっかりやられた。
こうしたコンテンポラリーな演劇的ライブはこの新しいライブでも追求していた。チェーンで囲まれたほぼ四角いステージはミュージシャンが出入り自由で、時にはスクリーンになったりシンプルなライティングで影をキャスティングしたり。
ところで『20センチュリー・ウーマン』ではトーキングヘッド好きを公言した少年がハードロックファンにいじめられるシーンがあったが、あの時代にはロックの都会派 vs. 田舎派があったのだなあと思った。
それにしてもデヴィッド・バーンのトークは知的で洗練されていた。ふつうのバンドが曲の合間にするのとはずいぶん違う。
テーマも選挙人登録を促すものだったりと社会問題のあるところが日本のとは違う。BLM運動の一環とも言える曲もあったし。
こうした知的なライブはなかなか体験できるものではない。
映画『国葬』・『粛清裁判』監督:セルゲイ・ロズニツァ
『国葬』は1952年のスターリンの国葬を、『粛清裁判』は1930年の産業党裁判のアーカイブ映像を編集したもの。
人民の父の喪失によって呆然とする人民、国家の敵による自己批判など、ソ連に関する記述ではおなじみのことが映像で見ることができたのが収穫。
そのように映像自体が興味深いので楽しめたが、映画としては発掘してきた映像素材を編集して作品に仕上げたものなのでドキュメンタリー映画とは言えないと思う。
映像に別の音源の音声や厳粛な音楽を重ねたり、群衆の映像を早回しなど意図が前面に出すぎている。ドキュメンタリストとしては歴史と事実を目の当たりにして粛然とした態度が必要ではないか。
それにしても『粛清裁判』では年代のテロップがなくいきなり裁判が始まってしまう。当地の一般人は「産業党裁判」と聞けば1930年とすぐに分かるものなのだろうか。
『未来への大分岐』マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、プール・メイソン、斎藤幸平(編著)
『人新生の資本論」の齋藤幸平による現代思想家との対談集。
現代の左派思想、特に海外のそれを概観するという価値がある。斎藤としては脱成長、反資本主義、環境正義をテーマとしたかったようだが、相手が乗ってくる場合もあり、そうでない場合もあり。
『帝国』のマルクス・ガブリエルと対談では、ウォール街占拠運動とサンダースについて。また、ダコタ州スタンディングロックでのスー族の運動についてが興味深かった。スー族の主張は原住民としての権利の主張ではなく「人類と地球との新たな関係」を訴えているという。
他にもアルゴリズムの自主管理、ベーシックインカム批判、ポピュリズムとマニュシパリズムの違いなどにも触れている。
『欲望の資本主義』のマイケル・ハートとの対談では「ポスト真実(Post-Truth)」と「相対主義」をテーマに今日の政治危機を語る。
これらへの解決策として「新実存主義」と「熟議型民主主義」があるらしい。私はまだ読んでいないので興味を持った。
「(グローバルサウスという)見えないものを見ようとしない先進国社会」「洪水よ我が亡き後に来たれ(マルクス)」とか「トランプ、プーチン。それからAIが来る」など興味深い議論が続く。特にポストモダン言語を操るプーチン露大統領については今日的な話題だった。
『ポストキャピタリズム』のポール・メイソンは主に情報技術のインパクトと情報社会の今後に興味があるらしい。
(メイソン)ここまでで話をした四つの要因の影響をまとめると、情報技術の発展によって、利潤の源泉が枯渇し①、仕事と賃金は切り離され②、生産物と所有の結びつきも解消されるでしょう③。そして、生産過程もより民主的なものになっていきます④。
その結果生じるのは、人々が強制的義務的な仕事から解放され、無償の機械を利用して必要なものを生産する社会です。そして、100%再生可能エネルギーと天然資源の高いリサイクル率が実現される「潤沢な社会」となるでしょう。(p 255)
それを阻む要因として「①市場の独占―限界費用ゼロ効果に対する抵抗、②ブルシット・ジョブ―オートメーション化に対する抵抗、③プラットフォーム資本主義―正のネットワーク効果への抵抗、④情報の非対称性をつくり出す―情報の民主化への抵抗」とある。
興味深い議論ではあるがウィキペディア、オープンソースへの評価が高すぎるように感じた。
本書は現代思想を網羅した興味深い対談集ではあるがあくまでもオーバービューである。個々の思想についてはそれぞれの書籍にあらためて当たるべきものと思った。
私は特に、ウォール街占拠運動とその後について、そして米国のグリーンニューディールの評価についてもっと知りたいと本書を読んで思った。
『人新世の「資本論」』斎藤幸平
本書はマルクス研究者による地球環境問題への処方箋であり、かつマルクスが残したノート研究による「共産党宣言」「資本論」を超えたマルクス思想の新解釈の書である。
私は斎藤が本書で説くように、地球環境問題を解決するには資本主義からの決別以外にはないということには同意する。しかし、一方で資本主義からの決別、そしてコミュニズムへの移行が現代の人類に可能なのだろうかとも思う。
そもそも人類は自らこの「欲望を解放することを許す制度」である資本主義を選んだのだ。共産主義を含むその他の制度は資本主義に飲み込まれ滅んだのだ。
であるからには、新たな社会制度を考える者はこの「欲望」という人間の根本的性質をどう捉えるのか、という文学的テーマに取り組むことが必要だと私は考える。
また、中世の西欧におけるプロテスタンティズムの勃興が資本主義を産んだ。さらには人権と民主主義を産んだという視座も必要ではないか。コミュニズムは西欧の勤勉さと人権をどう評価するのだろうか。(「日本人のための憲法原論」小室直樹)
もっと言えば、私は人間には「平等」や「共有」に耐えられないのではないか、つまり斎藤の説く「脱成長」に耐えられるのだろうかとの疑問が本書を読んでいて離れなかった。
以下、各章ごとに自分の興味のある項目を概要する。
第1章は「SGDsは人民のアヘンである」という強烈なフレーズで昨今の気候変動論への批判を展開から展開される。
資本主義制度の根源は無限の経済成長を求めるシステムであり、技術的移転、空間的移転、時間的移転による外部化である。よって先進国の国民が帝国的生活様式を改めることはできない。また、グローバルサウスへの被害影響を意識的に止めることもできないと論ずる。
そして、その外部化の対象が地球上になくなってしまったのが現代という時代である。その被害は地球温暖化という形で先進国にもはね返ってきているのだ。
第2章では批判の対象を「グリーン・ニューディール(緑の経済成長)」「気候ケインズ主義」など環境問題の言論界へと向けられる。
そのひとつが「デカップリング論」。これは従来、経済成長と環境負荷は関係しているという見方を分離させるという考え方である。斎藤はこれを「生産性の罠」「ジェヴォンズのパラドックス」などを引用して無理筋であるとする。
だが、それは、自分たちの帝国的生活様式を変えることなく。――つまり、自分たちはなにもせずとも――気候ケインズ主義が持続可能な未来を約束してくれるからだ。ロックストロームに言わせれば、それこそまさに、「現実逃避」なのである。(p91)
第3章ではプラネタリー・バウンダリー論をさらに精緻化したラワースのドーナッツ経済論を取り上げ、環境経済議論をさらに詳細に論じる。ここでも批判の対象になるのは資本主義の根源的性質である。
資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そしてその過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間から収奪を行ってきた。(中略)利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。(p 117)
本章ではさらに日本国内の知識人や言論界に対し批判が向けられる。いわく日本の言論人は「脱成長 vs 経済成長」という大きな問題を「団塊世代 vs 氷河期世代」問題へと矮小化してしまった。
それが日本言論界の環境問題意識である。つまり、日本の知識人は結局、資本主義を受け入れるところからしか議論をすすめられないのだ。
さて、第4章においてようやくマルクスが登場するのだが、斎藤は世間でよくあるような「共産党宣言」や「資本論(第1章)」から解くことはしない。斎藤は今日のマルクス研究はMEGAと呼ばれる「マルクス・エンゲルス研究」が中心であるとしている。
この晩期マルクスの研究ノートを含む研究によると、マルクスは晩期に思想的大転換を得た。それは従来の研究では常にマルクス思想の中心にあったとされる「進歩史観」と「ヨーロッパ中心主義」からの転換であったのだ。
斎藤は、その転換とは「ザスーリチへの手紙」と「ゴータ綱領批判」の再解釈から読み取れるとする。それは「脱成長コミュニズム」なのだ。
前章でこうした従来のマルクス思想の転換を指摘した上で、第5章では現代のコミュニズム思想界隈への批判を行う。
取り上げられているのはバスターニの「完全にオートメーションされた豪奢なコミュニズム」である。バスターニは地球環境問題はテクノロジーによって解決可能であるとしている。しかし、それは第2章で批判の対象となったグリーン・ニューディールや気候ケインズ主義と違いがない。
また、バスターニは選挙が社会改善に有効であるとする。しかし、それでは政治家や専門家に地球の行く末に関する決定・判断を一任することになる。それでは資本による包摂となんら違いがないではないか。
そこで斎藤は「市民議会」による市民からの意思決定を提起する。これによって従来の政治制度を刷新するべきであると主張している。
第6章は、いよいよ資本主義というシステムへの詳細な分析と批判が行われる。資本主義の根源的特性「本源的蓄積=人工的希少性の増大=囲い込み(Enclosure)」を分析した上で、<コモンズ>という社会のあり方、それによる「豊かさ」を対置する。
そして重要な考え方として「価値」と「使用価値」を挙げ、資本主義的価値である「価値」を棄却し、人間と社会本来にとって意味のある「使用価値」の復権を主張する。
マルクスの用語を使えば、「富」とは、「使用価値」のことである。「使用価値」とは、空気や水などがもつ、人々の欲求を満たす性質である。これは資本主義の成立よりもずっと前から存在している。
それに対して、「財産」は貨幣で測られる。それは、商品の「価値」の合計である。「価値」は市場経済においてしか存在しない。
マルクスによれば、資本主義においては、商品の「価値」の論理が支配的となっていく。「価値」を増やしていくことが、資本主義的生産にとっての最優先事項になるのである。その結果、「使用価値」は「価値」を実現するための手段に貶められていく。「使用価値」の生産とそれによる人間の欲求の充足は、資本主義以前の社会においては、経済活動の目的そのものであったにもかかわらず、その地位を奪われたのだ。そして、「価値」増殖のために犠牲にされ、破壊されていく。マルクスはこれを「価値と使用価値の対立」として把握し、資本主義の不合理さを批判したのである。(P 247)
そして、新しいコミュニズムとは「市民の共有価値である<コモン>を取り戻すことである」とし、さらに重要なことは、ここで言う<コモン>とは「消費」についてのことではなく、「生産手段について」としていることである。
昨今の環境論者が主張する「環境を意識した<消費>」にはなんの意味もない。むしろ「労働」や「生産手段」の<コモン>を取り戻すことが必須であるする。
私はすべての人々が囲い込まれて<コモン>から都市労働者へなったとは考えていない。中には過酷で息苦しい地方での人生・生活から逃れるために自ら生まれ育った土地を離れて都市へ移った例も多いと見ている。
新しいコミュニズムはそうした自由選択の結果としての資本主義の側面も考えるべきであろう。
第7章では「資本主義では民主主義を守ることができない。生産の場における労働者の自治が不可欠」とのトマス・ピケティの転換を取り上げる。
つまり、「消費抑制」のみを求め「労働のあり方」を考えないのでは資本主義にはいつまでも勝てない。そして「労働のあり方」を再構築するためには次の5つの視点が必要とする。
第8章では前章に挙げた脱成長経済の実例を挙げている。いわくバルセロナとフィアレスシティ・ネットワークの取り組み、メキシコ・チアバスのサパティスタ、ヴィア・カンペーシーナ活動、ワーカーズコープの取り組みなどである。
私はこの章で、特に「気候正義(Climate Justice)」という言葉に強く印象を持った。その反面、1章にあった「洪水よわが亡き後に来たれ」という言葉が思い出された。時間稼ぎからの決別が待ったなしであることが印象付けられた。
気候正義(climate Justice)という言葉は、日本語としては耳慣れない言葉かもしれないが、欧米では毎日のようにメディアを賑わせている。気候変動を引き起こしたのは先進国の富裕層だが、その被害を受けるのは化石燃料をあまり使ってこなかったグローバル・サウスの人々と将来世代である。この不公正を解消し、気候変動を止めるべきだという認識が、気候正義である。(p 336)
本書は複雑でわかりにくかった地球温暖化・環境についての各種の議論についてのオーバービューを提示してれたことにこそ大きな価値があるのではないかと思う。
本書の意見に同意するかどうかは別にしても、本書は一方の極であるという位置を確実にした。地球環境問題を考える上で必読の書であることは間違いない。
『介護するからだ』細馬宏通
人間行動学の研究者による、介護の現場でケアする側される側の双方の動き(動作)を見つめたレポート。
決して実務で役に立つ内容ではないが、介護者と障害者が体と心と言葉と態度によってどのようなやりとりをしつつ、ケアをしたりされたりしているのか。多くの実例を挙げて記述している。
おそらく介護者も介護される側も意識したり言葉にされずとも最適解として日々、瞬間・瞬間行っていることなのだろう。あらためて本になることでケアすること・されることの精妙さを再確認することが本書の価値なのだろう。