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普通二種免許一発試験で合格まで

きっかけ

現在59歳。4月末に退職。前職は完全外資のIT系。70歳、80歳になってもウェブ開発じゃない、これを機に末永く続けられる職種をと考え、介護の資格と二種免許を取ることにした。2020年、コロナの年のこと。

自動車学校という方法も考えたが、いろいろと調べてこれなら自習+試験(一発試験)でいけるのではないかと判断。ちなみに運転歴は40年ほどで、安全運転には自信がある。

学科試験

5月はコロナで世間が落ち着かず、先の見通しも分からなかったので何もしなかった。しかし、6月に入ってそろそろと準備開始。まずは学科試験対策として問題集を2冊買った。

買ったのは「改訂新版 第二種免許 試験に必ず出る!  実戦1570題」と「赤シート対応  1回で合格! 第二種免許完全攻略問題集」の2冊。

もともと試験対策は得意。毎日2-3時間、約1週間ほど問題集に取り組んだ。ただ、この問題集はひっかけ問題が多くて、答え合わせをするといつもギリギリだった。

とりあえずトライアルのつもりで6月末に府中運転免許試験場で学科試験を受けた。

コロナ明けですごい人出だったが普通二種の受験者はたぶん10人ほどか。試験は意外と素直で、これなら何回か受ければいけそうだと思っていたら、なんと一発で合格した。合格者の番号が自分のだけだったので他の人はダメだったのかな。

その日のうちに技能試験の予約をとった。この予約なのだが週に1回くらいしかない。7月はもっと少なくて2週間に1回くらいだった。とにかく、学科試験の2週間後に技能試験を予約。

慣らし運転と貸しコース

マイカーを持っていないので慣らしのためにレンタカーで首都高速>海ほたる>袖ヶ浦>千葉>幕張>都心とドライブ。80歳になる母を乗せていった。海ほたるで東京湾眺めながらお寿司。

技能試験の構内では「鋭角」というのと「縦列駐車」「方向転換」というのがあるらしい。それが気になってそのコースがある上北沢自動車学校の貸しコースに数日後の夕方に行ってみた。上北沢自動車学校は7月中に閉校ということだった。

鋭角と縦列駐車の練習はしたのだが方向転換は甘く見ててしなかった。これが失敗だった。

技能試験1回目

さて、第1回目の技能試験。普通二種(タクシーの方と呼ばれていた)は自分を入れて3人だった。そのうちのひとりとちょっと話してみたが、もう6回目だという。それでも路上に出たのは1回だけ。しかもお情けだという。

学科試験をコロナ前に済ませていたのだが、それから試験場が中断になって2ヶ月ほど技能試験に進めなかったらしい。有効期限が6ヶ月なのでその間の救済期間を考えてほしいと言っていた。

さて自分の試験だが1回目がダメだった理由は鋭角と方向転換で切り返しの回数が多すぎたこと。たぶん4回ずつやった。乗り上げるより安全な方がいいのだと思っていたので今考えてみれば不要な切り返しもしてしまった。まあ、1回目はトライアルのつもりだったので気にはしなかったが。

コース開放

その翌週の日曜日に二俣川にある神奈川県運転免許センターのコース開放にレンタカーで行った。ここでは鋭角と方向転換を繰り返して練習。

さらにその翌週に再び上北沢自動車学校の貸しコースで練習。それなりに自信がついたのだが。

技能試験2回目

2回目の技能試験。脱輪、接輪はなかったがこれも切り返しの回数が多すぎた。路上に出られず終了。

教官に「運転に落ち着きがない」「ミラーをいちいち下に向けるのが良くない」などと言われた。窓から顔を出すとか停車中のステアリングとかどこまで許されるのか考えすぎて混乱していた。ウェブとか動画とかではいろいろなことを言っているのだが、情報が多すぎてすべてを詰め込んでしまった。結果、動きにスムースさがないのが反省点。

そもそもタクシーの運転は同乗者が安心して乗っていられるかが大事。なので運転手は落ち着きが最も大切なこと。それを意識の中心にして余計な情報はきっぱり忘れることにした。

技能試験3回目(路上へ)

3回目は2週間後。この回では落ち着いて1回で通過することを心がけて鋭角と方向転換した。それぞれ1回ずつ念のための切り返しをしたが、後ほどマイナスポイントにならなかったと聞いた。

待合室に帰って路上に出ることになってホッとしたが、路上のことを全然調べていないことに気づいた。しかし、これもトライアルとして経験を積むつもりでやってみた。この回でも3名いたが路上に出たのは私だけだった。

路上試験待合室から路上に出るとやはりするべきことが気になって動きがぎこちなくなっていく。ルームミラー、サイドミラー、ウインカー、振り返って目視などはこれでいいのかなど。

やや下り坂でスピードオーバーを指摘された。停車場所で向かいの道路出口に気づかず「ここは交差点だけど」と指摘された。黄色信号で停まったら白線行き過ぎたが、これはバックで戻るべきだった。結局、試験中断で戻ることに。

教官に「技術は持っているが運転の基本知識が不足」と言われた。確かに左折時の巻き込み防止寄せとか自分の時代にはなかったような。まあ、前回まで構内突破を目標にしていたのでワンステージアップしてちょっと気分が良くなった。

レンタカーで路上想定練習

8月は介護研修で忙しく4回目の技能試験は電話してリスケジュールしてもらい、ほぼ1ヶ月後になった。

それに先だちまたレンタカーで今度は府中運転免許試験場の周辺をグルグルと回ることにした。特にスピード感覚。

普段は流れに乗ることが大事と考えてるので、一般道ではよっぽどオーバーしない限りはスピードメーターは見ない。しかし、あらためて確認すると平気で10キロくらいはオーバーしてる。

60キロとはどのくらい、50キロとは、40キロとは、これくらいの道路なら30キロ、20キロと肌感覚で覚えることにした。それからマイペースで流れに乗らずに法定速度を守ることを覚えた。

技能試験4回目(合格!)

その2日後に4回目の技能試験。構内ではもう余裕があった。2回まで切り返しできると知っているので心に余裕がある。

鋭角と方向転換のコツをメモしておく。鋭角は右回りでも左回りでもそれぞれ外側にぴったりとつける。方向転換は同じく凹面側にぴったりつけてコースに入る。それぞれ窓から顔を出して直接目視もOK。

いずれにしても4つのタイヤの位置が、(だいたいあの位置)と見えなくてもイメージできるようにしておく。大型とかワゴン車とかタイヤがミラーで見られる車両に乗っている人はこれで苦労していた。

今回も3名だったが1名は構内で落ちて、路上に出たのは2名だった。2名を後部座席に乗せて路上の安全地帯で乗り換えて試験を開始。私が先だった。

流れの中でミラー>合図>目視など完璧にできたとは思わない。また、自信のない停車場所もあった。それからクセになっている巻き込みハンドルをしてしまったときもある。あと、プリウスの操作(パーキング、エンジン、ギア操作)に慣れなくていちいち確認が必要だった。

しかし、結果は「合格予定」。「ホントですか」と思わず言ってしまった。今回はダメでもこの経験であと数回あれば受かるだろうとうっすらと考えていたのだ。

教官は「厳密にチェックするとギリだが運転に慣れているのを評価した」とのことだった。「巻き込みハンドルはクセなので直してください。これはマイナスポイントになりました」「他はマイナスになるようなものはありません。施設入り口は停車可です。」「ただ、いつも左が寄り過ぎなのでこれは注意してください」とのこと。

取得時講習

9月いっぱいかけて10回までに受かればいいやと思っていたのでとても嬉しい。すぐにタクシーの運転手になれるとは思っていないが、公式に安全運転が評価されたわけでやはり嬉しい。

その日のうちに取得時講習の手続きをと思っていたのだが、今日受かると思っていなかったので手持ちの現金がなくそれは後日することに。

それで翌週早々に府中へ。窓口で聞いてみたら、講習してる自動学校に電話して今すぐ予約を取ってくれとのこと。

リストには数十件の学校があり、上から順に電話したのだが数カ月先になるというところが多い。ようやく今週できますというところが見つかりそこに行くことに。

府中で作ってもらった書類を持って翌々日に立川の自動車学校に通った。講習は2日間。

1日目は午前中が障害者への対応について。午後は救急救命について。ダミーを使って心臓マッサージの練習など。

2日目はシミュレーターを使って悪天候時運転体験。それから実車で立川周辺をひとまわりとそれについてのディスカッション。午後はまたシミュレーターで夜間運転体験。それで修了証をもらって講習は終わり。

免許証交付

もうすべて済ませてしまおうと翌日府中に。

3階の窓口で取得時講習の終了書を提出してから1階の交付窓口へ。そこは激混みで書類提出までに30分待ち、それから書類作成までにもう20分。写真撮影の後、2階の交付室でさらに40分待ち。それでようやく更新済み免許証を手に入れた。

午後1時に試験場入り、終わったのが3時過ぎ。長かった。

費用と期間

費用としてはここまでで書籍、レンタカー、試験費、取得時研修、交付手数料、貸コース、交通費などで約94,000円。取得時研修と交付手数料が3万円と大きかった。また、マイカーがあればレンタカー代はかからなかったのだがマイカーの毎年毎月の維持費を考えれば…。

期間は最初の学科試験が6月半ば、技能試験合格(4回目)が9月半ばなので3ヶ月ほど。介護研修がなければもっと短かった。

試験場や講習で会った人に聞いた話。会社に費用を出してもらい一発試験を受けに来た人がいた。また、タクシー会社に就職して普通二種取得の費用を出してもらうという若い子がいた。その場合、1年ほどその会社に勤務すること必須らしいが。

若くてこの業界でこれからやっていくと決めているならこの手もありだね。会社にとっても教育訓練給付が2割負担だろうし。

私の場合、自動車学校行かず学科試験1回、技能試験4回で一発試験通過。最低限のコストで普通二種免許取得まで行けたので満足。

追記:免許交付の翌日には介護職員初任者の認定書が来ました!


アート巡りの帰りにプチ被災体験

アート巡りの帰りにプチ被災体験


●地震発生から中学校校庭で避難へ

前のポストにあるように3月11日に栃木県桜川市へ雨引の里と彫刻2011に行き、その帰りに地震に遭遇しました。自分の防備録も兼ねて経緯を書き残します。

タクシーでJR水戸線大和駅に着いたのが13:40頃。次の小山方面の列車が14:20でしたのでかなり時間がありました。お天気もよかったので無人駅の周辺で日向ぼっこなどしながらのんびりとしました。

14:20大和駅発の列車に乗ってローカル線の旅。平日の午後ですので4両編成の車内は座席が半分埋まるくらいの状況です。

終点の小山駅ひとつ手前の小田林駅でドアが閉まったときに大きな揺れがありました。これが14:45の一回目の揺れです。車両が大きく横揺れしました。それがかなり長い時間続きました。

ドアが開き、乗客の一部が外に出ましたが揺れが中断してから車内に戻りました。しかしその後も揺れは断続的に続きます。その時は外にいるよりも車内の方が安全と感じました。

その後、何回か車内アナウンスはありましたが、バッテリー保護のため電源が落とされると若い車掌さんが一両ずつ生声でアナウンスしていました。その時点で暖房も停止。

その30分後に「本日中の復旧の目処はたたず、余震で車両が脱線するおそれがある」とのこと。車掌さんの指示で駅前の結城中学校校庭に移動することに。ちなみに小田林駅は無人駅です。

車両もかなり寒くなっていたのですが、吹きさらしの校庭はさらに寒かったです。校庭に行った乗客は60名ほど。

そろそろトイレの心配があったので、学校関係者に聞いたところ体育館は危険だが武道場は大丈夫とのことで、それを使わしてもらいました。これはありがたかったです。

乗客に中国人のカップル二組がいました。地震が起きてからも楽しそうにはしゃいでいたのですが、さすがに心配になのではと思い「日本語わかる?」と聞いたところほとんど分からないらしい。

こちらも中国語はぜんぜん分からないので困りましたが、「トイレ、あそこ」とか「電車、今日はダメ」とか単語で伝えるだけはしました。友部に住んでいると言っているようでしたが、その後どうしたかな。

さて、家族との連絡についてですが「こういう時に携帯はつながらない」との刷り込みがあって、最後まで音声通話はしませんでした。今、考えてみると、ときどき話している人が周囲にいたのでやってみてもよかったのですが。

それでiPhone(SBM)のSMSやGmailなど試してみましたが届いたり届いていなかったり。あるいは先方からのメールが届いていたりいなかったりでした。やはり、一番安定していたのはTwitterのダイレクトメッセージです。


●中学校の会議室での待機

17:00過ぎに余震の心配はなくなったようで車掌が乗車取り消しチケットを出すことになりました。それから学校関係者の勧めで会議室に入ることに。そこにはストーブがあってほっとした。

その時点では帰ることができた地元の方が何人かいたようで、会議室に入ったのは30名ほど。

車掌さんの話で水戸線も宇都宮線も当分動かないことが分かり、今夜は泊まりになりそうだと覚悟を決めました。そこで同じように遠方に帰る人はいますか?と声をかけたところ10名ほどが手を上げました。

夕方になり自分のiPhoneのバッテリが心配になったので、学校関係者にお願いして電源タップを借りてきたところ、数名が充電を希望しました。

中に充電器を持っていない人がいたのですが、もじもじしていたので代わりに「どなたかDocomoの充電器を貸してくれませんか」と声をかけたところ何人かの方が快く貸してくれました。

その後、乗客の方がイチゴやおみやげのお菓子などを分けてくれて雰囲気がなごみました。

そういえばとiPhoneのRadikoのことを思い出し、これをスピーカーで流したところ多くの人が聞きに集まりました。やはりこんな時、人が求めるのは情報なんだなあと感じ入りました。

だから、こうした状況で先ず必要となるのは、携帯の電源とラジオかテレビなどの情報源だと思います。

さて、その後しばらくして、ある乗客が「学校としては乗客に近いうちにここから出ていってもらうつもりらしい」と聞いてきました。

結城市のいくつかのホテルに電話をかけたところ営業していないと言われており、電車も不通ですし、ここを出されたら遠方からの乗客は寒空にどうしようもなくなります。

そこで、「少なくともこの部屋で一晩滞在させてもらえないだろうか、あと毛布など貸してもらえればもっといい」と交渉したところ、これから学校は無人になるのでダメだとのこと。

学校としては生徒を自宅に安全に帰すので忙しかったと思うし、自分の家も心配だろうから気持ちは分かります。しかし、学校はダメでも自治体に災害対策があるはず。なのでせめて市役所に連絡してもらえないかと意見したところ、やってみるとのこと。

ところが、その後市役所に電話がつながらないので自分で電話するようにとの言い渡し。これは校長先生に直接交渉しなければと考えていたところ、JRの車掌さんが今後はこちらが交渉するとのことでした。

JRも相当混乱しており、若い車掌さんで頼りになるかなと心配もありましたが、とりあえずお任せすることにして待機していたところ、地元の消防団が協力してくれることになりました。


●小田林コミュニティセンターで一泊

19:00近くに消防団の方のキャンピングカーが迎えに来て、遠方の乗客7名を乗せて移動しました。残りの人達は迎えの車が来るのを学校で待つことにしたようです。

目的地の小田林コミュニティセンターは停電中で水も出ないとのことですが、お湯は沸かせるとのことでした。食事が心配なのでお願いしてコンビニに寄ってもらうことにしました。

コミュニティセンターはたしかに電気も水道もありませんが、発電機が動いており灯りもストーブもあり、備蓄の毛布や食料も出してくれて学校よりはるかに快適な環境でした。ただ水道はダメでしたので、トイレのことを考えて食事は控え目にしようと思いました。

さて、食事もすませてひとごこちが着いた頃、地元の子ども連れ家族が二組合流しました。

和室にはテレビがあったのですが、発電機のコンセントにつなげても映りません。乗客の一人があれこれやっているとようやく映って、情報が得られたのでもっと安心。その後、市役所の方が状況説明に来たり名簿作成に来たりとありましたが、予想外の居心地のよさにほっとしていました。

すると22:00頃に市役所の方が来て、電気も水道もある別の施設に移ってくれとの要望がありました。しかし、乗客の全員が既にここで落ち着いているのでここで構わない、移動はしたくないと伝えました。市役所の方で、しばし議論があったようでしたが、各自の希望を尊重するということに。

23:00頃に乗客の一人の友人が迎えに来ました。友部から来たとのことです。
迎えに来てほしいと連絡をしたのが17:00頃でしたが、渋滞や通行禁止が多く、踏切が通れないとのことで5時間もかかってしまったらしい。

ということで、この時点でひとり減って乗客は6人に。

ところで、同様に列車に乗っていて地震に遭遇した例はそこらじゅうにあるはずで、同じ水戸線でも山奥で止まってしまったり、あるいは宇都宮線や新幹線のように大量の乗客を乗せて止まってしまった車両もあるはずです。それを考えてみると、同じ被災者でもたまたま駅に止まり、駅前に中学校があったことは幸運なことです。

また、こうして災害にあった者たちを援助するのは、結局、政府でも自治体でもなく消防団だったのです。

自分の家でさえ停電、断水、ガス断に見舞われているのに、遠方の乗客のためにあれこれと世話にしてくれた、結城市消防6分団と結城市役所の方のホスピタリティには感謝の言葉もありません。

今回の体験で、日本の防災対策が消防団など地元の有志団体によって支えられていることを痛感しました。


●翌朝から出発まで

ということで、その夜は防災用品の毛布でぐっすりと眠り、翌朝は6:00頃に目覚めました。

朝になるといろいろと必要なものがあり、市役所の方にお願いして自動車で近所のコンビニに連れていってもらいました。

私は靴下とヒゲ剃り、歯磨きセットを買いましたが、この店は電気が通っておらず、当然POSレジは動かずで、電卓で計算して支払いをしていました。

商品によっては値札がついておらず、店員が走りまわって値段を確認していましたが、やがて客が自ら金額を調べてレジで金額を伝えるという方法が自然的に発生しました。この店と客の無言の信頼関係を目のあたりにすると、やっぱり日本社会の成熟度はすごいということを実感しました。

さて、コンビニへの行き帰りに町を見てみると、確かに屋根瓦が散らばっていたり、石壁が倒れているのを見かけます。また、墓石もかなり倒れているのがあったそうです。

Twitterのつぶやきで栃木県の被災が話題にならないことを嘆くものがありましたが、確かにその通りだと思います。適切な対応や支援が届き、当地が復旧することを望みます。

コミュニティセンターでは水が出ませんのでペットボトルの水をつかって顔を洗って、歯を磨いて、ヒゲ剃りをしましたが、ボトル3分の1も使いませんでした。昔の海軍の水兵は洗面器一杯で体も拭いていたと聞いていましたが、やればできるもんだなあと思いました。

そろそろ帰路の情報を収集をしなければなりません。
テレビを注意深く見たりiPhoneで調べたりしましたが、宇都宮線は復旧の目処はたたないとのことでした。しかし、大宮から京浜東北線は動き始めたらしいことが分かりましたので、大宮までたどり着けばなんとかなりそうです。

そこで、3人ずつタクシーに分乗して大宮まで行こうと乗客同士で話しあいました。

それを市役所の方に相談したところ、地元のタクシー会社の社長に知人がいるので早速連絡してみるとのこと。こういう時はやっぱり地元ネットワークが頼りになります。

ですが、同じことを考えている人が多いらしく空車がなかなかつかまりません。
しばらく粘ってくれて、ようやく2台確保。10:30頃に来てくれることになりました。結城市から大宮まで大体20,000円なのでひとりあたり6,500円くらいです。

私は現金が心配だったのでカードが使えるタクシーだろうか、それともキャッシングをしにまたコンビニまで連れていってもらおうかと考えていました。しかし、タクシーはカードOKとの確認もしてくれました。

何から何まで調べてくれて、手配してくれて、まったく、地元の親切はありがたい。

そうして、出発の準備と片付けなどをしていると、市役所の方からどうやら宇都宮線が動き始めたらしいとの情報が入りました。そこで、あわててタクシーをキャンセルし、市役所の方の自動車で小山駅まで行くことに。

ただ、小山駅のホームページでそう書いてあるだけで、駅には電話がつながらないのです。そこで、もし駅に行っても列車が動いてなかったらコミュニティセンターに戻るということで10:30頃に出発しました。


●宇都宮線と日常の東京へ

10:55に小山駅に着いて駅員に確認すると最初の電車がもうすぐ着くとのこと。あわてて全員を呼んでお礼もそこそこにホームに急ぎました。しかし結局列車が着たのは30分後。とにかく12日の始発列車(11:30)に全員乗れました。

しかし、列車は線路や踏切を確認しながらということで自転車程度のスピード。しかも踏切ごとに一時停止しながらですので、駅を3つ行くのに1時間もかかりました。

また、古河駅では別ホームの列車の方が先発と言われ、あわてて移動することに。ところが列車が駅を出たのはその1時間後。出ても相変わらずのゆっくり運転で久喜駅まで3時間ほどかかったでしょうか。

久喜駅でまた乗り換えのアナウンスがあり、ホームの向かいに来た列車に乗り換えることに。しかし、その後は大宮まで快調な運転でした。この乗り換えで昨夜からの乗客とは別れ別れになってしまいましたが。

大宮駅近くのアナウンスで、ここから先の上野駅まではまたゆっくり運転になるとのことでしたので、私は大宮で埼京線に乗り換えることに。

この乗り換え時に通った大宮の駅ナカの賑やかさにはめまいがしました。また、埼京線や山手線はいつもどおりの運転で、窓から見える街も変りなく、日常そのものでした。

ということで小山駅に着いたのが11:00で、新宿の実家に着いたのが17:30。約6時間半の旅でした。

翌日、調べてみると宇都宮線が再び運転見合わせになっていました。あの一本を逃していればもう一泊もありえたわけです。ただ、東武線は12日の14:00頃にほぼ全開通でしたので、栗橋か久喜まで行けばなんとかなったのかもしれません。

というちょっとした非日常体験をしました。もっと過酷な体験をされている方が多いと思いますが、ひとつの体験として記録を残す必要もあるかと思いました。

被災地のみなさんが一日も早く日常に復帰することをお祈り申し上げます。