映画一覧

映画「Death to 2020」Netflix

映画「Death to 2020」Netflix

ひどかった昨年(2020年)の出来事を素材にした、架空のインタビューによるドキュメンタリー風の映画。出てくる人みんなアタマ悪くてヒドイ人ばっかりなんだが、演ってるのはサミュエル・L・ジャクソンやヒュー・グラント、トレーシー・ウルマンとか名優ばかり。ひどい1年を笑い飛ばすのにサイコーな映画。しかし、今年がどうなるのかはまだわからないけどね。

Death to 2020 | Official Trailer | Netflix

 


映画「返校」

映画「返校」Netflix

幽霊少女と現実の少女の出会いと別れという、ホラーというよりはゴースト青春ストーリー。大林宣彦の「ふたり」を思い出した。台湾の近代史の暗部に目を背けない姿勢に引き込まれて8話まで見た。それにしても台湾の俳優層が厚いこと。主役のふたりも脇もしっかりとしてる。シーズン2もあるらしく楽しみ。

《返校》影集 | 正式預告 | Netflix

映画『パラサイト 半地下の家族』

映画『パラサイト 半地下の家族』

カンヌでパルムドールだというので見てみた。貧乏家族が金持ち家族を欺いて家庭教師、運転手、家政婦として入り込んだが、その家の地下には先客がいたというストーリー。

劇映画として凝ったつくりで面白いがそれだけ。特に格差社会に問題意識を持っての映画ではない。そうであるならばもっと良い映画はたくさんある。

そもそも階級格差とその衝突は、過去と現在の映画の主要ジャンルである。深刻に、または軽妙にこれをモチーフとする映画は山ほどある。それに良い出来のがひとつ加わったというだけ。

ケン・ローチかスパイク・リー、あるいは黒澤明の「天国と地獄」を観たほうがよかった。

 


映画『私はあなたのニグロではない』

映画『私はあなたのニグロではない』

ジェームズ・ボールドウィンの未完のエッセイ「Remember This House」をベースに、本人のインタビュー映像、講演の映像、その他の映像資料による米国社会の白人および黒人をめぐるドキュメンタリー映画。2017年制作。ナレーションはサミュエル・L・ジャクソン。

言葉ではなく映像でもなく音楽でもない。フィクションでもなく、ノンフィクションでなければ伝わらないというこの事象を伝えるために作られた、これは完璧なドキュメンタリー作品。

だからこのブログで解釈することはしない。ただすべての人がこの映画を見るべき。そして、1回ではなく最低でも3回は見るべきと思うからだ。よってここでは感想を羅列することだけをすることにする。

ジェームズといえば1950年代から活動しているブラックの作家であると同時に公民権運動の活動家。この映画で彼は何人かの人物とその暗殺について語る。

1957年、ドロシー・カウンツ。15歳。白人たちにののしられながらノースカロライナ州シャーロットの中学校へ登校する。

1963年、メドガー・エヴァース。自宅にて狙撃され死亡。38歳。

1965年、マルコムX。講演中に銃撃。3人の男に15発の銃弾を受け死亡。39歳。

1968年、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア。白人男性にモーテルのバルコニーで銃撃され死亡。39歳。

記録映像にあるマルコムは、話す内容は過激ではあるがその語り方の知的なこと。冷静なこと。また、キング牧師の運動の方法である「非暴力」の徹底していること。自分の言葉への信頼の深いこと。

ジェームズは言う。「彼らは対立していたが、終わりにはどんどん一致していった。キングはいつかマルコムの意思を継ぐようになっていた。マルコムの重荷を自ら背負うようになった」

そう語る映像のジェームズの言葉遣いの的確なこと。白人の知識人やインタビューアーが、流れるように、でも考えもせずに英語を話すのと対象的に、彼はゆっくりと言葉を選びながら語る。それが印象的。

アメリカ映画については「白人は結局、黒人を理解しようとしなかった」「白人は黒人に嫌われていないと思いたがり、そう信じた。そして疑うこともしなくなった」と語る。「手錠のままの脱獄(1958年)」「夜の大捜査線(1967年)」

また、アメリカ音楽については「豊かな白人社会だけを描いたドリス・デイやゲーリー・クーパー的音楽と、レイ・チャールズ的な豊かな黒人音楽の層があり、それらは危険なくらい長い間交わらなかった」と語った。ワイングラスを選ぶドリス・デイと樹からぶら下がる黒人たちの映像。

このようにひとつの国に2つの人種(白人とそれ以外)があり、片方がその存在を必要としながら相手を人間として認めずにいることは国として不健全である。このままでは国が滅亡に向かうのは必至、と彼は主張する。「白人もニグロもこの国から生まれた兄弟(最も憎まれた末っ子がニグロではあるが)。私もアメリカ人でありこの国の将来を深く心配しているひとりである」と。

ジェームズはロバート・ケネディ司法長官と面談したことがある。ロレイン・ハンズベリーも同席した。ふたりはロバートの兄である大統領(J.F.K)に、ある黒人少女と一緒に歩いてくれるよう依頼した。それには黒人社会にとって大きな理由があったのだ。しかし、司法長官はその理由を最後まで理解しなかった。ロレインは黙って立ち去った。

ジェームズは人種問題は黒人の問題ではなく、白人の問題であるとする。白人が想像力を働かせることができ、歴史と現代に対する理解力を持ち、国の将来のためにどうすればいいのかを真剣に考えれば解決すると50年前から主張している。

さて、それから50年経って、現代のアメリカ社会はどうなったのか。すこしでも良くなったのか。どんな阿呆にでも分かるこの映画の主張のひとつはそれだと思う。

映画『私はあなたのニグロではない』予告編

映画「普通に死ぬ~いのちの自立~」

映画「普通に死ぬ~いのちの自立~」

コロナ下での自主上映会の可能性を知る意味もあり東高円寺のセシオン杉並というホールに見に行った。

「みかんぐみ」という障害者支援のNPOが主催の自主上映会。400人くらいのホールだが、1列おき2席空けての着席で100人定員で実施だった。平日の午前だったがそれくらいは入っていたと思う。


映画は静岡の重度障害者家族が立ち上げたホームの利用者と家族を追ったドキュメンタリー。

この映画のテーマは障害者とその家族の死。ずっと介護を担ってきた母が亡くなり、障害者本人も亡くなっていく。映画は音楽やイメージに逃げずにまっすぐにその死へカメラを向ける。

ひとつのエピソードは兄と妹の障害児のうち妹が23歳で亡くなった後の母と父のその後の人生について。

もうひとつは、我が子のためもあって施設の設立に奔走する母がその実現前にガンで急死した家族について。残された20歳の娘のためにその姉と支援者は居場所を模索する。しかし、その娘も23歳で亡くなる。

また、3人兄弟の末っ子に障害がある母。しかし、本人もガンが広がり子どもに最後の別れを告げてやがて亡くなっていく。

他にも家族の死と生のエピソードが続く。

障害児のいる家族は介護の担い手が死んだらどうなるんだろう。障害児はその後どうやって生きていくんだろう。そうした疑問にこの映画はまっすぐに向き合っている。

この映画は、医療ケアや障害者介護の課題などに答えるものではないが、実際に今あることを伝えるというドキュメンタリーならではの意味と価値を備えている。障害者介護に興味のあるなしに関わらず誰もが見るべき映画であると思う。


自分は当事者でもその家族でもないのになぜ障害者問題に興味があるのかとあらためて問いかけてみると、それは彼らがこの社会の最前線にいるからだと思う。障害者が生きられない社会はもうダメなのだと思うからだ。

類人猿の遺跡から明らかに障害のある高齢の骨が見つかったことがある。それは彼らが障害のある仲間をケアしていた証拠である。人類の社会は制度的であれ非制度的であれ障害のある者をケアして来た。

それはそうすることが必要だったからなのだろう。それは知識の継続などの理由があったかもしれない。それは分からないが障害のあるものを大事にすることが集団の継続に必要だったのかもしれないと私は想像している。

そして、それについては人類学とか民俗学の研究にいくつかの成果がある。いずれにしても障害者を見捨てることをしてきた社会は歴史上特例に過ぎないと思う。

その特例にはナチスの障害者迫害とか旧ソ連の障害者状況などが思いつくが、現代の資本主義と合理主義の行き着く先にこの特例が世界を覆いつつあるという懸念がある。

だからこそこの世の中がまだ大丈夫なのかを確かめるためにも、彼らの日々を見つめていたい。そして、その日々が少しでも良いものになるように何かをしたいと思っている。

「普通に死ぬ~いのちの自立~」劇場用予告編

映画「ジェニーの記憶」

映画「ジェニーの記憶」

ドキュメンタリー作家として成功した女性が48歳になって13歳のときのセックス経験を思い出すというストーリー。相手は40歳。それは恋愛だったのか虐待だったのか。

母に指摘され、当時の知人に話を聞くまでは記憶から拭い去られていた出来事。それを思い出し、当時の自分の姿と相手の男性を映像として描くとそれは明らかに…。それでも当時の「私」にとってはそれは自分の選択。そして自分が主体的に終わらせたことだった。

学校で発表した作文や、母の指摘、知人の態度、表情などから記憶の迷宮をたどっていく姿は苦難に満ちている。

当時一緒に過ごしたちょっと年上の女性にたどりつき、彼女に「私は13歳だった」と言ったときの相手の複雑な表情と、それに気づいてしまう自分。さりげないカットが傷の深さを表現している。

「まあ、70年代だったし」と話を濁すが、それはお互いへの思いやりの言葉。今になって思い出したりしない方がいいこともあるのだ。しかし、当事者からすればそれを明らかにしなければ今の自分が支えられないということもある。

そういう体験をしたことがないのでわかったふりはしないが、忘れたい出来事とそれを明らかにせざるを得ない気持ちの葛藤はわかる。いい映画だった。分かったふりで煙に巻くという「もう終わりにしよう。」よりは、はるかに見る価値がある。

THE TALE Official Trailer (2018) Laura Dern, Thriller Movie HD

映画「もう終わりにしよう。」

映画「もう終わりにしよう。」

NETFLIXでご紹介されて見てみた。付き合い始めて間もないカップルが彼の実家に行くことになり、その車内での会話から始まる不条理劇。

語り手が彼女なので、その彼女が主人公なのかと思いきや、彼女は本当は彼の空想の存在かもしれない、いや彼自身も年老いた掃除夫の空想の存在なのかも。と見るものの意識を二転三転させる、そうしたメタドラマを楽しむ映画。

エンドロールにも彼女は「young woman」としか書いてないし(劇中はで名前を呼ばれている)。帰りの車中で役者が入れ替わっているカットがあるのに気づいた。

知的な話題から下衆な話題まで、または不穏な空気や打ち解けた雰囲気までとりそろえた会話が延々と繰り広げられ、会話劇として楽しめる。最後のダンスと歌はおまけのように付け加えられた。

この映画は傑作ではない。監督もそのつもりで作ってはいないと思う。ただ、言葉のやり取りと人生の不条理を味わうための映画。楽しめたがそれ以上の深い意味もない映画。

同じ不条理映画でもデビッド・リンチだと狂気を動機として作っている感じがある。狂気が動機である場合、製作者の意志や意図はない。そして、その切実さが見ているものを捉え動かす。

この映画はこうした映画を楽しんでくださいという意図が見える。なのでもう二度と思い出すことはないだろうと思う。

チャーリー・カウフマン監督作『もう終わりにしよう。』予告編 – Netflix

 


映画『ハーヴェイ・ミルク』

映画『ハーヴェイ・ミルク』

米国でホモセクシュアルとして初めて選挙に選ばれて公職を得たハーヴェイ・ミルクのドキュメンタリー。1984年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門受賞作品。

サンフランシスコのゲイムーブメント興隆と、市長が多様性社会に理解があったこともあり、ハーベイはホモセクシュアルの教師を追放するべきとした第6条破棄の住民投票に勝利するなど多くのゲイ運動の成果を勝ち取っていく。

しかし、同じくサンフランシスコ市の議員であったホワイトに市長とともに射殺されその生涯を閉じる。議員としての在任期間はわずか1年であった。

彼の死を受けての市民のキャンドルデモは静かで厳粛な雰囲気であったという。しかし、犯行に及んだホワイトの陪審員判決がわずか7年8ヶ月であったことに怒った市民のデモは暴力的であった。

「殺されたのが市長だけだったらホワイトは死刑になっていたろう。しかし、世の中の多くはゲイが殺されるのは仕方のないことだと思う者が多い」というインタビューが映画にあった。

「中産階級以上の白人は、窓を越えて市庁舎に入り市長を射殺し、予備弾丸を装填して別の議員を射殺しても死刑にならないことがわかった」という発言もあった。

現在、Black Lives Matter運動のきっかけとなった白人警官による黒人への暴力行為を見ることができる。あれから50年近くになるが、アメリカ社会は変わってないのではないか。

ハーヴェイが夢見た世界はまだ遠い、それどころが遠ざかっているのではないかと暗澹たる思いになる。今日見るには重い映画だ。

『ハーヴェイ・ミルク』予告編

 


映画『ゼロ・ダーク・サーティ』

映画『ゼロ・ダーク・サーティ』

CIAの女性調査員がビンラディンを発見して殺害するまでを描いたインテリジェンスサスペンス映画。

自分の人間性とか人生の喜びを犠牲にしてテロのリーダーを追い詰める様はもはや狂気を感じさせるが、これが911以降の米国の空気なのだろうか。

サスペンスとしては面白いのだろうが「事実に基づく」物語としたら暗澹たる想いとなるのが普通の人間だろう。

これをただの面白い映画と消費してはならない。特にビンラディンを殺害して何らアラブ問題が解決していないのを知ってる現代人にとっては。

『ゼロ・ダーク・サーティ』予告編

映画「COME AND SEE(邦題:炎628)」

映画「COME AND SEE(邦題:炎628)」

1985年公開、ソ連制作の戦争映画。ナチスドイツ侵攻時のベラルーシ民間人への虐殺を描いた作品。監督のエレム・クリモフはこれ以後、映画を撮っていないという。

パルチザンに参加を試みた少年兵と森で出会った少女。家族のいる村での虐殺などを経て別の村で保護されることになるが、そこではさらに残虐な体験をすることになるというストーリー。邦題はその時期に住民とともに焼かれた村の数である。

映像、美術、演出、演技、シナリオ、音声という映画のすべての要素を極めた映画表現の傑作。その表現のテーマは言うまでもなく戦争の残酷さ、あるいは人間そのものの残酷さである。

それを表現するのにまず少年と少女の変化がある。あどけない様子が最後にはどうなったのかを見ればそれは明らかである。映像では人物の顔・表情のクローズアップを多用しており、内面の変化が表情に刻まれていく様子が恐ろしいほどだ。

自然光による撮影はドキュメンタリーを思わせ、いつ画面に死が現れてもおかしくない気分にさせる。また、当時としては新しかったであろうステディカムの映像は人物のあとをどこまでも追いかけ、逃げまどうしかない彼らの恐怖に一体感を覚える。

地味なアンビエント系の音楽も効果的。また、高空を飛ぶ偵察機の音、人の咳き込む声、蝿の音など音声効果も素晴らしく、この緊張感は映画が終わっても永遠に続くのではないかと思わせる。映像はシークエンスごとに区切りとなるが、音声効果はその時の気分を継続させるというテクニックなのだろうか。

武器などの小道具やドイツ軍の衣装は本物を使ったという。また、銃撃には実弾を使い、牛が撃ち殺されるシーンでは本当に実弾を撃ち込んだらしい。当時の共産圏映画らしいこだわりである。

この映画をメディアアートとして評価する声もあるが、この映画の価値は作家が表現するべきテーマを明確に認識し、それをあらゆる技術を尽くして作品に結実させたということである。上記のようにそのテーマはホロコーストをおこした人間の残酷さである。

本作品をいかなるホラー映画より恐ろしい映画であると評する評論があり、こちらも参考になる。

The Scariest Film Ever Made ISN’T a Horror Film
Come and See (1985) Movie Review
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come and see trailer