書籍一覧

『僕は八路軍の少年兵だった』山口盈文

『僕は八路軍の少年兵だった』山口盈文

名著の声が高く一読してそれは間違いではなかったことが分かった。彼の体験は同世代によっては珍しいことでもないのだろうが、こうして本になることは稀有である。

特に中共軍兵士であり共産党員でもあった日本人から見た中国内戦と朝鮮戦争の報告は他に例がないのではないか。

それにしても開拓団あるいは日本軍の最下層兵士であることの苦しさ息苦しさ。「内務班」という言葉を思い出す。

それと対象的な中共軍の明確な軍規が極めて印象的である。

ルール(三大規律八項注意)さえ守れば上下関係はゆるく、脱走も可能だったという八路軍。鉄の軍規で締め上げたはずの日本軍・関東軍が民間人を残して潰走し、多くの兵士をシベリアに抑留させたのとは対象的である。

本書には日本軍のその残酷な上下関係は捕虜収容所であっても維持されたという記述がある。これを読むとそれは規律の問題ではなくそれを自ら受け入れた日本人であることから滲み出してくることのように思える。

「日本軍は強かった」と語る夢見る者たちはこの事実をどのように心で整理しているのだろうかと思う。


『本のエンドロール』安藤祐介

『本のエンドロール』安藤祐介

編集者、作家、デザイナーなどクリエイティブと言われる人々から「出版」を描いた作品は多いが、これは印刷会社の営業マンの目線で描いた出版業界ストーリー。

私もこの業界に関わった経験があり、また巨大印刷会社のある地元生まれ。それで小規模の印刷、製本工場が毎日けたたましい音を立てて機械を動かし、フォークリフトが走り回っていた時代を知っている。

そして、それらが次々と店をたたみ、印刷業界が縮小していくのも体感していた。そういえば本書に登場してくるような天才肌の装丁家の事務所で仕事をしていたことを思い出した。

本書では紙の本がなくなるのではという危機感を底流にし、それでも毎日の仕事をきっちりとこなす業界の人々を描いている。

「眼の前の仕事を間違いなくこなすこと。将来の希望はそれを通じて自ずと現れてくるもの」という本書のテーマは、この業界に限らずあらゆる職業に通じる態度だと思う。

ともすれば破天荒な者、破滅的な者を取り上げがちなフィクションの世界に、こうした地味で真面目な者たちに光を当てた作品がヒットすること、そのことに素直に拍手を送りたい。


『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ:「もう一度始める」ための手引き』エディ・S・グロード・ジュニア

『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ:「もう一度始める」ための手引き』エディ・S・グロード・ジュニア

私自身はボールドウィンを読んだことがない。彼についてはドキュメンタリー映画『私はあなたのニグロではない』を観たことがある程度である。

また、本書によれば、アメリカの人種差別問題こそが彼の人生と活動の唯一最大の課題であり、かつ彼の全作品のテーマでもある。

それ故、軽々にこの本について語ることはできない。そして、彼についてはそうすることを控えなければならないという気持ちになる。それはごく自然に敬虔に感じてのことだ。

それでもあえて本書を紹介するなら、アメリカ黒人の文化と歴史の研究者である著者、エディ・S・グロード・ジュニアがボールドウィンの著作と人生の歩みに沿ってアメリカの人種差別問題について考察するというエッセイである。

もちろん、ボールドウィンの思想についての著者の深い洞察があり、当事者以外(アメリカ人でもなく、ブラックアメリカンでもない)がこの問題の深部についてうかがい知るための貴重な手助けになる本である。

その洞察は当然、現代から60年代、70年代の公民権運動の時代を照射するものとなる。

が、同時に初の黒人大統領であるオバマへの失望の現代、トランプ大統領のいる現代から、ニクソン大統領、レーガン大統領のいた時代へ新たな失望感を照射することでもある。

アメリカの人種差別問題は結局白人問題である。アメリカは偉大な国である。その偉大な国には人種差別などないという嘘を、心から信じなければ白人は生きていけない。そして白人社会は日々、その嘘に苦しめられ仕返しされている。それを正し、その苦しみから逃れるには、その嘘を嘘だと認める以外にない。

それを正すチャンスがこれまでに2回あった。それは南北戦争直後のリコンストラクションの時代と20世紀後半の公民権運動の時代である。そしてどちらも失望に終わった。白人がそれを認めるのを拒んだからだ。

それが私が本書から読み取ったボールドウィンの思想である。

そして、3回目のチャンスがやってきた。トランプ大統領の登場という裏返った現象によって。差別主義者である米国大統領の登場によって白人も有色人種も移民も、その現実に気づかざるを得なくなったからである。

もちろん冒頭に書いた通りこの問題については軽々な見方はするべきではない。あくまでもメモとして私はここに記しているのだ。

さて、もうひとつ考えたのは、台湾社会の人権との向き合い方である。

台湾社会も戦中、戦後と激しい差別と弾圧の時代を経て、今日では人種的多様性を積極的に保護する政策がとられ、国民もそれを受け入れているようだ。政党の人気取り的な面もあるが「移行期正義」の名のもとにかなりの予算をかけて自らの過去に向き合っている。

こうした国民意識と政治の方向性が地政学的な理由だけであるとは私には思えない。国民の意識の深層に人種や多様性を容認する何かがあるように感じる。(台湾人の人種?肌の色の問題?との指摘もあるが、原住民族を中華系住民や日本人はどう扱ったのか?)

それを「アジア的な何か」であるという軽々な意見は控えるべきではないかという、こちらについても敬虔な態度が自分には必要だとも思っている。


『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』ナンシー・フレイザー

『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』ナンシー・フレイザー

本書は根本的な資本主義批判の書である。

資本主義は単なる経済学の概念ではない。それは近代以降の様々な社会問題の原因であり、それらの問題の構造構築を担ってきたものとして理解するべきである。そして、それを理解するにはまず資本主義の概念を拡張して捉えるべきものであるとしている。

しかし、本書の対象範囲は極めて広範であり、かつそれぞれの分野に多様な議論が存在している。極めて興味深い内容ながら本書ではそれぞれの課題を指摘するにとどまっている。より深化した議論は今後期待するということであろう。

本書では資本主義を原因とする深刻な社会課題のうち特に次の4分野を挙げている。

第一は、資本主義は基本的に拡張志向であり、拡張するためには搾取と収奪が必要である。そして搾取と収奪する対象は常に有色人種であり周辺地域であるとする考えだ(人種・地域差別)。

第二は、資本主義は社会再生産を担うケア労働の価値を認めず、子育てや介護、障害者福祉を女性に担わせてきており、それに対する代価を支払ってこなかった(社会再生産へのタダ乗り・ジェンダー差別)。

第三は、資本主義は自然から資源を収奪し、廃棄物を投棄してきた。これにも代価を払うことなく、現代に生きる人間に環境被害を与えつつ、将来世代へその被害を丸投げしている(環境破壊)。

第四は、資本主義は有利な社会維持のために政治制度に依存しながらも、さらに自らに有利なように解体・再構築しようとしていること(政治の無力化・制度へのタダ乗り)。

資本主義は上記の四点、人種・地域差別、社会再生産へのタダ乗り、環境破壊、制度へのタダ乗りを構造として必要としながらそれをやはり構造として侵食している。

つまり、資本主義は根本的に拡大を志向していながらもその基盤を自ら破壊していることになるのだ。それが本書の原題「Cannibal Capitalism(共食い資本主義)」の意味であり、原書の表紙イラストにある自らの尻尾に喰らいついた蛇(ウロボロス)の意味でもある。

私が特に興味を持ったのは第3章「ケアの大食らい」である。

本章では近代において資本主義が生産を担うのは男性であると規定し、一方で社会的再生産を担うケア労働は女性が担うべきものとした。そして資本主義はそうした女性の無償労働にタダ乗りして生産と資本拡張をしてきたと指摘する。

ところが現代では働き盛り世代の女性を子育てや介護から遠ざけるようになった。最先端の大手企業では女性に卵子凍結サービスを提供しているという。また、母乳ポンプが大人気だという。

そして誰が子育てや介護などのケア分野を担うのか。それは移民や外国人労働者である。しかし、それを移管された外国人が本来自国でするべきだったケア労働は誰が代替するのか。さらに下部構造の構成員、つまりさらに弱い者たちである。

このように資本主義は社会的再生産活動を無償で提供されるものとして自らの拡張システムに組み込んでいる。なぜ教育、子育て、福祉分野の賃金が一向に改善されないのか。その原因がここにある。


『台湾のアイデンティティ 「中国」との相克の戦後史』家永真幸

『台湾のアイデンティティ 「中国」との相克の戦後史』家永真幸

本書は有史以降の歴史、現在の人種構成に至った理由、日本統治時代の近代史、国民党一党支配の現代史、それ以降の民主化への道のり、近現代における中国との関係など、この国を知るための知識を手際よくまとめた一冊である。

もちろんそれ以上に、本書は現代の台湾がどうやって「自由、民主、人権、法治」を重視する社会に至ったのか、その過程に共和国と米国がどのように影響したのかを国際政治関係を含めて明らかにしている。

また、書名にも関わらず本書は台湾人による日本への視点に明確なビジョンを与えてくれる。いわく「台湾人は本当に親日か?」「安倍晋三への評価は本心か?」「八田興一への敬愛は本当か?」などである。

いずれについても多様性を指向する現在の台湾人アイデンティティの形成に至った過程を本書でじっくりとたどることによって納得の行く理解が得られるであろう。

さて、私は特に国民党独裁時代の抑圧の実態、白色テロ時代の国民への弾圧をまとめた第2章が興味深かった。

この時代の反体制活動の構造が決して単純なものではなく、台湾独立派と共和国との連帯派などが複雑に絡み合って一枚板になり得ないこと。

それが陳智雄事件、自由中国事件、民主台湾聯盟事件など多くの実例を基に記述されている。台湾人の国民意識が今日に至ってもいかに複雑であるのかを意識させられる章である。

その点で本章で引用されている元立教大学教授の戴国煇の「省籍矛盾を強調することの問題点」という指摘(p.62)は示唆するところが大きい。

弾圧のメカニズムが錯綜した複雑なものであるにもかかわらず、現在(一九八八年)、本省人の大部分は、自分たちを被害者とだけみなし、加害者は国府(中華民国政府)・国民党・外省人と決めつけ、単純化して呪詛する。嫌悪の情をあらわにすることさえも少なくない。
当時の国府も国民党も一枚板では決してなかった。(略)一部では、自分たちの対日協力をめぐる悪事の露見の防止に、これぞよき機会といわんばかりに、ライバルの消去に、密告と官憲の手を借りた暗闘と暗殺の事例も少なくなかったと伝えられる。
ともあれ、公開裁判ではなく、秘密裏の連捕と暗殺だった。下手人が誰であれ、弾圧の方式と内容のいかんを問わず、悪の元凶のレッテルは、国府・国民党・外省人に貼られる。(略)
悲劇の傷痕だけが残り、疼き続ける。そして日本植民地時代の「共犯構造」の従犯者たちらは、二・二八事件を機に、いつのまにか民衆の視野と記憶から巧みに身を隠した。(戴国煇『台湾』)

また、戦後の日本政府による台湾人(中国人)の扱いを取り上げた第3章も興味深い。呂伝信、林啓旭、張栄魁の強制送還問題。陳玉璽、柳文卿、劉彩品、林景明と日本政府の対立など今となっては歴史に埋もれた多くの実例を取り上げてこの時代の台湾と日本の関係を明らかにしている。

戦後日本社会の暗部として忘れてはならない歴史であろう。思い出せばこの事は当時の活動家間では、直接関わったものは少ないながらも知識や情報としては一般的だったように思うが。

(前略)現在の台湾社会は、政府が強権を行使して秩序や安定を維持することは認めながらも、国家暴力が市民の自由を抑圧するのをいかに防ぐかをきわめて重視する。また、対岸の中国大陸との人的交流や経済活動が健全に営まれることを望むとともに、国際社会の構成員として尊重され、貢献できることを願っている。台湾で定期的に行われるようになった選挙では、緊張感のある競争のなかで候補者と有権者が一体となり、台湾が望ましい状態あるための絶妙なバランスが模索されているように見える。(後略)[p.247]


『風の十二方位』アーシュラ・K・ル・グィン

『風の十二方位』アーシュラ・K・ル・グィン

ル・グィンの傑作長編「闇の左手」「所有せざる人々」「ゲド戦記」のサイドストーリーを含む短編集。これらのファンにとっては嬉しい一冊である。「冬の王」が「闇の左手」、「革命前夜」が「所有せざる人々」、「開放の呪文」「名前の掟」が「ゲド戦記」にそれぞれ対応した作品である。

「冬の王」は王の放浪と帰還、そして親子の闘争へ至る物語。短編ではあるがサーガ的重厚感を備えた一篇である。

また、「革命前夜」はあのオドー本人の物語である。革命とは何か、思想はいかなる形で次世代に伝わるものかが描かれる。しかし、これが老境における物語になろうとは想像もしていなかった。気持ちよく裏切られた。

もちろんそれ以外の作品もすべて満足度が高い。特に「オメラスから歩み去る人々」は、社会と倫理の関係を痛烈にうがったものである。彼女がただのファンタジー・SF作家にとどまらず、思想家としての側面が大きいことがうかがえる。

ル・グィンの評論も読みたくなった。また、ル・グィンを論じた多くの評論があるらしく、これも読んでみたくなった。


『天のろくろ』アーシュラ・K. ル=グウィン

『天のろくろ』アーシュラ・K. ル=グウィン

夢を見ることによって現実改変ができることに気づいた男がその能力に畏れをいだき、様々なトラブルに巻き込まれるというプロット。

この小説以前にも以後にも多くの同様の物語が生み出されている。まさにあの手この手とあるのだが、私が最も感心したのはイーガンの「宇宙消失」だった。夢や無意識によって現実がみるみる形態を変えていくというダイナミックなシーンはどちらにもある。

しかし、この小説の読みどころは、そうした派手な演出よりも主人公の静かなたたずまいではないか。ル=グウィンの主人公はどれも同じく、内面の葛藤を抱えており、それを決して外部に責任を探すことをしない。そして彼に関わる者はいずれも反発しつつも惹かれていく。

どこかにル=グウィンの小説作法として、先ず主人公の外観を想像する、と書いてあった。彼女のいずれの小説でもこの静かな、悩み多き、かつ強き者の姿を読むことができる。それが読者としての最大の歓びであろう。


『所有せざる人々』アーシュラ・K・ル・グィン

『所有せざる人々』アーシュラ・K・ル・グィン

堂々たる古典文学、教養小説である。本書で語られるテクノロジーや社会論は現代となっては古めかしい議論であり小説の背景に過ぎない。しかし、それでも本書は全く価値を減じることがない。

この小説を読んでいるとトーマス・マンの『魔の山』が常に思い浮かんだ。『魔の山』でもアナーキズム、共産主義、資本主義などの社会論がさかんに論じられた。本書では惑星ウラスとアナレスの制度の違い、そしてオドー主義とは?か。そして本書にもヴァルプルギスの夜がある。

ひとりの男がいて、その仕事がある。妻や子どもがいて友人や仲間がいる。敵も陰謀もあり、暴力にもさらされる。父は縁が薄く、母は敵対する。旅立ちがありそして帰還もある。そうした、ひとりの人間が人生を通じて迷い、そして成長することが描かれる。これこそが小説ではないだろうか。

いまどきの入り組んだ仕掛けばかりの小説を読んでいると、本来の小説とは何かと迷う時がある。そうした時は常に古典に向き合うべきと思う。

考えてみると高齢になってもまだ読んでいない古典文学がたくさんある。そうすると新しい小説を読まなければならないどんな理由があるのだろうか、とふと思う。

追記:本書をユートピア論から読み解く論文もあった。「ユートピアの実践」高橋一行


『近畿地方のある場所について』背筋

『近畿地方のある場所について』背筋

ネットコンテンツやホラー雑誌の記事を素材としたホラー小説。色々な人がそれぞれ別のことを話しているのに、結局ある場所についてのことであった、という構成。全体構成や結末よりも個々の記事にゾッとするものが多かった。

本書とはずれるが、ネット文化は日本人の言葉を操る能力を開花させたのではなかったのかとあらためて思った。こんなに多くの人がこんなに大量の文章を生成している時代はかつてなかった。それが今後どんな時代を創っていくのか極めて興味深い。


『動物農場』ジョージ・オーウェル

『動物農場』ジョージ・オーウェル

1984年当時はこちらの方が『一九八四年』よりも評価が高かったのはなぜだろう。レーニン批判とソ連への幻滅が顕になった時期だったからか。今日ではSFの文脈とMacintoshのCMのせいかこちらを知らなくても『一九八四年』は知っている者は多い。

読んでみると確かにすべての革命への幻滅という意味で、ロシア革命のみならず普遍的な内容である。しかし、重厚さ、熱意という意味で後者が勝る。それが読んでみての感想である。

1984 Apple's Macintosh Commercial (HD)