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『未来への大分岐』マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、プール・メイソン、斎藤幸平(聞き手)

『未来への大分岐』マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、プール・メイソン、斎藤幸平(編著)

『人新生の資本論」の齋藤幸平による現代思想家との対談集。

現代の左派思想、特に海外のそれを概観するという価値がある。斎藤としては脱成長、反資本主義、環境正義をテーマとしたかったようだが、相手が乗ってくる場合もあり、そうでない場合もあり。


『帝国』のマルクス・ガブリエルと対談では、ウォール街占拠運動とサンダースについて。また、ダコタ州スタンディングロックでのスー族の運動についてが興味深かった。スー族の主張は原住民としての権利の主張ではなく「人類と地球との新たな関係」を訴えているという。

他にもアルゴリズムの自主管理、ベーシックインカム批判、ポピュリズムとマニュシパリズムの違いなどにも触れている。


『欲望の資本主義』のマイケル・ハートとの対談では「ポスト真実(Post-Truth)」と「相対主義」をテーマに今日の政治危機を語る。

これらへの解決策として「新実存主義」と「熟議型民主主義」があるらしい。私はまだ読んでいないので興味を持った。

「(グローバルサウスという)見えないものを見ようとしない先進国社会」「洪水よ我が亡き後に来たれ(マルクス)」とか「トランプ、プーチン。それからAIが来る」など興味深い議論が続く。特にポストモダン言語を操るプーチン露大統領については今日的な話題だった。


『ポストキャピタリズム』のポール・メイソンは主に情報技術のインパクトと情報社会の今後に興味があるらしい。

(メイソン)ここまでで話をした四つの要因の影響をまとめると、情報技術の発展によって、利潤の源泉が枯渇し①、仕事と賃金は切り離され②、生産物と所有の結びつきも解消されるでしょう③。そして、生産過程もより民主的なものになっていきます④。
その結果生じるのは、人々が強制的義務的な仕事から解放され、無償の機械を利用して必要なものを生産する社会です。そして、100%再生可能エネルギーと天然資源の高いリサイクル率が実現される「潤沢な社会」となるでしょう。(p 255)

それを阻む要因として「①市場の独占―限界費用ゼロ効果に対する抵抗、②ブルシット・ジョブ―オートメーション化に対する抵抗、③プラットフォーム資本主義―正のネットワーク効果への抵抗、④情報の非対称性をつくり出す―情報の民主化への抵抗」とある。

興味深い議論ではあるがウィキペディア、オープンソースへの評価が高すぎるように感じた。


本書は現代思想を網羅した興味深い対談集ではあるがあくまでもオーバービューである。個々の思想についてはそれぞれの書籍にあらためて当たるべきものと思った。

私は特に、ウォール街占拠運動とその後について、そして米国のグリーンニューディールの評価についてもっと知りたいと本書を読んで思った。


『人新世の「資本論」』斎藤幸平

『人新世の「資本論」』斎藤幸平

本書はマルクス研究者による地球環境問題への処方箋であり、かつマルクスが残したノート研究による「共産党宣言」「資本論」を超えたマルクス思想の新解釈の書である。


私は斎藤が本書で説くように、地球環境問題を解決するには資本主義からの決別以外にはないということには同意する。しかし、一方で資本主義からの決別、そしてコミュニズムへの移行が現代の人類に可能なのだろうかとも思う。

そもそも人類は自らこの「欲望を解放することを許す制度」である資本主義を選んだのだ。共産主義を含むその他の制度は資本主義に飲み込まれ滅んだのだ。

であるからには、新たな社会制度を考える者はこの「欲望」という人間の根本的性質をどう捉えるのか、という文学的テーマに取り組むことが必要だと私は考える。

また、中世の西欧におけるプロテスタンティズムの勃興が資本主義を産んだ。さらには人権と民主主義を産んだという視座も必要ではないか。コミュニズムは西欧の勤勉さと人権をどう評価するのだろうか。(「日本人のための憲法原論」小室直樹

もっと言えば、私は人間には「平等」や「共有」に耐えられないのではないか、つまり斎藤の説く「脱成長」に耐えられるのだろうかとの疑問が本書を読んでいて離れなかった。

以下、各章ごとに自分の興味のある項目を概要する。


第1章は「SGDsは人民のアヘンである」という強烈なフレーズで昨今の気候変動論への批判を展開から展開される。

資本主義制度の根源は無限の経済成長を求めるシステムであり、技術的移転、空間的移転、時間的移転による外部化である。よって先進国の国民が帝国的生活様式を改めることはできない。また、グローバルサウスへの被害影響を意識的に止めることもできないと論ずる。

そして、その外部化の対象が地球上になくなってしまったのが現代という時代である。その被害は地球温暖化という形で先進国にもはね返ってきているのだ。


第2章では批判の対象を「グリーン・ニューディール(緑の経済成長)」「気候ケインズ主義」など環境問題の言論界へと向けられる。

そのひとつが「デカップリング論」。これは従来、経済成長と環境負荷は関係しているという見方を分離させるという考え方である。斎藤はこれを「生産性の罠」「ジェヴォンズのパラドックス」などを引用して無理筋であるとする。

だが、それは、自分たちの帝国的生活様式を変えることなく。――つまり、自分たちはなにもせずとも――気候ケインズ主義が持続可能な未来を約束してくれるからだ。ロックストロームに言わせれば、それこそまさに、「現実逃避」なのである。(p91)


第3章ではプラネタリー・バウンダリー論をさらに精緻化したラワースのドーナッツ経済論を取り上げ、環境経済議論をさらに詳細に論じる。ここでも批判の対象になるのは資本主義の根源的性質である。

資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そしてその過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間から収奪を行ってきた。(中略)利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。(p 117)

本章ではさらに日本国内の知識人や言論界に対し批判が向けられる。いわく日本の言論人は「脱成長 vs 経済成長」という大きな問題を「団塊世代 vs 氷河期世代」問題へと矮小化してしまった。

それが日本言論界の環境問題意識である。つまり、日本の知識人は結局、資本主義を受け入れるところからしか議論をすすめられないのだ。


さて、第4章においてようやくマルクスが登場するのだが、斎藤は世間でよくあるような「共産党宣言」や「資本論(第1章)」から解くことはしない。斎藤は今日のマルクス研究はMEGAと呼ばれる「マルクス・エンゲルス研究」が中心であるとしている。

この晩期マルクスの研究ノートを含む研究によると、マルクスは晩期に思想的大転換を得た。それは従来の研究では常にマルクス思想の中心にあったとされる「進歩史観」と「ヨーロッパ中心主義」からの転換であったのだ。

斎藤は、その転換とは「ザスーリチへの手紙」と「ゴータ綱領批判」の再解釈から読み取れるとする。それは「脱成長コミュニズム」なのだ。


前章でこうした従来のマルクス思想の転換を指摘した上で、第5章では現代のコミュニズム思想界隈への批判を行う。

取り上げられているのはバスターニの「完全にオートメーションされた豪奢なコミュニズム」である。バスターニは地球環境問題はテクノロジーによって解決可能であるとしている。しかし、それは第2章で批判の対象となったグリーン・ニューディールや気候ケインズ主義と違いがない。

また、バスターニは選挙が社会改善に有効であるとする。しかし、それでは政治家や専門家に地球の行く末に関する決定・判断を一任することになる。それでは資本による包摂となんら違いがないではないか。

そこで斎藤は「市民議会」による市民からの意思決定を提起する。これによって従来の政治制度を刷新するべきであると主張している。


第6章は、いよいよ資本主義というシステムへの詳細な分析と批判が行われる。資本主義の根源的特性「本源的蓄積=人工的希少性の増大=囲い込み(Enclosure)」を分析した上で、<コモンズ>という社会のあり方、それによる「豊かさ」を対置する。

そして重要な考え方として「価値」と「使用価値」を挙げ、資本主義的価値である「価値」を棄却し、人間と社会本来にとって意味のある「使用価値」の復権を主張する。

マルクスの用語を使えば、「富」とは、「使用価値」のことである。「使用価値」とは、空気や水などがもつ、人々の欲求を満たす性質である。これは資本主義の成立よりもずっと前から存在している。
それに対して、「財産」は貨幣で測られる。それは、商品の「価値」の合計である。「価値」は市場経済においてしか存在しない。
マルクスによれば、資本主義においては、商品の「価値」の論理が支配的となっていく。「価値」を増やしていくことが、資本主義的生産にとっての最優先事項になるのである。その結果、「使用価値」は「価値」を実現するための手段に貶められていく。「使用価値」の生産とそれによる人間の欲求の充足は、資本主義以前の社会においては、経済活動の目的そのものであったにもかかわらず、その地位を奪われたのだ。そして、「価値」増殖のために犠牲にされ、破壊されていく。マルクスはこれを「価値と使用価値の対立」として把握し、資本主義の不合理さを批判したのである。(P 247)

そして、新しいコミュニズムとは「市民の共有価値である<コモン>を取り戻すことである」とし、さらに重要なことは、ここで言う<コモン>とは「消費」についてのことではなく、「生産手段について」としていることである。

昨今の環境論者が主張する「環境を意識した<消費>」にはなんの意味もない。むしろ「労働」や「生産手段」の<コモン>を取り戻すことが必須であるする。

私はすべての人々が囲い込まれて<コモン>から都市労働者へなったとは考えていない。中には過酷で息苦しい地方での人生・生活から逃れるために自ら生まれ育った土地を離れて都市へ移った例も多いと見ている。

新しいコミュニズムはそうした自由選択の結果としての資本主義の側面も考えるべきであろう。


第7章では「資本主義では民主主義を守ることができない。生産の場における労働者の自治が不可欠」とのトマス・ピケティの転換を取り上げる。

つまり、「消費抑制」のみを求め「労働のあり方」を考えないのでは資本主義にはいつまでも勝てない。そして「労働のあり方」を再構築するためには次の5つの視点が必要とする。

  1. 使用価値経済への転換
  2. 労働時間の短縮
  3. 画一的分業の廃止
  4. 生産過程の民主化
  5. エッセンシャルワークの重視(ブルシットジョブとの決別)

第8章では前章に挙げた脱成長経済の実例を挙げている。いわくバルセロナとフィアレスシティ・ネットワークの取り組み、メキシコ・チアバスのサパティスタ、ヴィア・カンペーシーナ活動、ワーカーズコープの取り組みなどである。

私はこの章で、特に「気候正義(Climate Justice)」という言葉に強く印象を持った。その反面、1章にあった「洪水よわが亡き後に来たれ」という言葉が思い出された。時間稼ぎからの決別が待ったなしであることが印象付けられた。

気候正義(climate Justice)という言葉は、日本語としては耳慣れない言葉かもしれないが、欧米では毎日のようにメディアを賑わせている。気候変動を引き起こしたのは先進国の富裕層だが、その被害を受けるのは化石燃料をあまり使ってこなかったグローバル・サウスの人々と将来世代である。この不公正を解消し、気候変動を止めるべきだという認識が、気候正義である。(p 336)


本書は複雑でわかりにくかった地球温暖化・環境についての各種の議論についてのオーバービューを提示してれたことにこそ大きな価値があるのではないかと思う。

本書の意見に同意するかどうかは別にしても、本書は一方の極であるという位置を確実にした。地球環境問題を考える上で必読の書であることは間違いない。


 

 


『介護するからだ』細馬宏通

『介護するからだ』細馬宏通

人間行動学の研究者による、介護の現場でケアする側される側の双方の動き(動作)を見つめたレポート。

決して実務で役に立つ内容ではないが、介護者と障害者が体と心と言葉と態度によってどのようなやりとりをしつつ、ケアをしたりされたりしているのか。多くの実例を挙げて記述している。

おそらく介護者も介護される側も意識したり言葉にされずとも最適解として日々、瞬間・瞬間行っていることなのだろう。あらためて本になることでケアすること・されることの精妙さを再確認することが本書の価値なのだろう。


『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代』武井麻子

『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代』武井麻子

看護、介護に限らず接客業など人を相手にし、自分と相手の感情を制御する必要のある仕事を「感情労働」としてこれにまつわるあれこれを綴ったエッセイ。

看護師や介護者の評価項目として「TLC(テンダー・ラビング・ケア)」というのがあったことが衝撃的。本書は2006年の刊行。現代では「お客様は神様」という考え方が批判的に取り上げられるようになったので時代の移り変わりを感じる。

介護者のメンタリティを中心に現場に即して取り上げたら、本書はもっと興味深いものになったのにと感じた。


『病んだ家族、散乱した室内―援助者にとっての不全感と困惑について』春日武彦

『病んだ家族、散乱した室内―援助者にとっての不全感と困惑について』春日武彦

タイトルから想像されるような家族ホラーや凄惨なドキュメンタリーではない。地域で活動する精神科医のノウハウが詰まった、きわめて実際的な本である。

認知症、うつ病をはじめとしてゴミ屋敷の住人、異常行動で近所から保健所へ通報されるような人へどのように対応したらいいのか、経験に基づいた知識、また支援者としての限度・限界への知見が詰まっている。そこには理想論やあいまいな言葉でのごまかしがない。また、筆者はそのような支援者に対し痛烈な批判をしている。

さて、筆者が本書で何度も指摘するのは、当事者よりも彼らに最も近い援助者であるべき家族のことである。つまり、家族の状況改善は最も有効な当事者への治療であるが、それと同時に当事者の状況の原因でもあるということだ。

医者が当事者を訪れると、その家族の精神異常が疑われる場合が少なくないという。

いわく、母の介護を人生の目的にしている息子。母の徘徊に困り果てて拘束して仕事に出かけて何とも思わない息子。何年も引きこもっている娘に困っていることはと尋ねると「フェルトペンと画用紙代がかさむのが悩み」という両親など。

筆者は当事者を入院させるなどして家族と引き離すこと、また、家族にヘルパーや保健師など外部の空気を入れることが劇的な効果をあげることを指摘している。

また、ノウハウのひとつとしてウソをついて当事者と会話することの効果も指摘している。いわく、ゴミ収集癖のある人に路上で話しかけるとき医者と言わない、玄関で区役所の職員を装って入れてもらうなどである。

精神病患者というものは本人にその自覚がなく、医者に会いに行くまでが大きなハードルである。ところがその周辺(近所の住民やケア担当職員)からは早急な診断を求められる。よってこれは面談を実現させるための仕方のないノウハウであろう。

ところが、こうした実際的なノウハウとインフォームドコンセントが重視される今日の世情はおそらく対立するのだろう。うがってみれば本書が今日では絶版となって入手困難となっている理由はそこにあるのではないかと推測される。

本書には地域で活動する精神科医としての腹をくくった覚悟が散見される。同時に、支援者として最重視するべきことは知識とか経験を仲間同士で共有し、意識を揃えて当事者に向かうことだとも指摘している。私には経験も知識もない分野ではあるが納得の行く意見である。

本書は地域で精神病が疑われる人々へのケアに従事する人々には極めて有用なものであろう。

「こわいもの知らず」とプロは違う

こわい思いをすることについて、それを差別だとか共感が不足しているなどと非難することは誰にもできない。場数を踏まなければ、そつなく立ち回ることはできない。合点のいかないシチュエーションにおいてこわいと思うことは、ある意味で世間一般の感覚そのものであり、それを失ってしまっては相手に適切なアドバイスもできまい。無鉄砲であったりこわいもの知らずであることとプロであることは別問題である。

患者を前にしてこわいと感じたとしても、それを恥じたり道徳的に問題ありなどと自責的になる必要はない。むしろ職場で「なぜこわいと感じたのか」を討議の材料にすべきであり、案外ベテランでも似たようなことについて迷っていたり揺れていたりするものである。担当医に疑問をぶつけてみるのもよい(ちゃんと答えてくれない不親切な医者もけっこういるが)。

もっと誠実に振る舞えとか、ミもフタもないことを言うような人間がいたとしたら(ケース検討会で、具体的アドバイスを求められた際に「もっとフトコロに飛び込みなさい」と無意味な助言をして保健婦を煙に巻いていた医者を知っているが、わたしはこういった抽象的かつ空疎な発言は犯罪に近いと思っている)、それは現場での経験がないくせに知ったかぶりをしている「尊大な臆病者」と思って間違いない。率直な気持ちを押し殺してしまっては、納得のいく援助活動など不可能となってしまうだろう。(本書143ページ)

事態はまことに厄介である。そう簡単に解決がつくものではない。悔しいけれども、どうにも手の出しようがない場合はいくらでもあるだろう。わたしなりの最良のアドバイスとは「自分だけで問題を抱え込むな」「自分だけで悩むな」ということであり、すぐに解決がつくとは限らなくともせめてチャンス到来に際してそれを生かしきれる体制を整えておくことであろう。そして援助者に求められる能力のひとつは「億劫がらずに、必要な人たちに連絡をつける才覚」ではないかと思うのである。(本書163ページ)


『リハビリの夜』熊谷晋一郎

『リハビリの夜』熊谷晋一郎

脳性まひ当事者による、全身障害であることの身体的、心理的あり様、それからリハビリ、自立生活について論じた書。

脳性まひ者(障害者)である事と「敗北の官能」を関連付けたこと、障害者の性的感覚を赤裸々に語るところが従来の医療者、支援者視点の書にはなかった。これは画期的な障害者論である。

一方そういった「障害者であることの官能」を寄り添わせながら、本書は「まなざし/まなざされる関係」という障害者が支援の現場で置かれる状況を詳細に論じていく。

筆者はやがて、健常者による規範的な動きを目標にしたリハビリは問題があると結論づけ、大学進学を機に自立生活を開始することになる。

そして、自立生活、研修医としての生活を経て「身体内協応構造/新体外協応構造」という概念を得る。それは排泄の失敗という経験と、施設の改善による世界との馴れ合い、あるいは研修医として医療の現場における同僚との共同作業の体験によって得たものである。

つまり、これは当事者が人生を通じて障害者としての身体と心理を分析し論理化したという、障害者研究としては類を見ないものではないだろうか。

さて、本書の終盤では自立生活を送る障害者が二次障害を意識する例、そして衰えについて触れている。これもまた現在を生きる当事者の心理として貴重な報告である。

特に自立生活を送る重度障害者の二次障害について、自らの反省をも表明する以下の部分が私には最も興味深かった。

降りた当事者たちは、生きる困難の原因を、自身の身体病理ではなく、社会の中に見出し、自立生活運動を展開してきた。その理念に、私は深くコミットしているし、本書もそのような考え方に貫かれている。

「問題は多数派の身体を前提にしている社会の側にあるのに、自己身体を問題化してたまるか」という発想が、私たちの中には確固としてあるのだ。そして、リハビリでの挫折を通してはぐくまれた医療的なまなざしに対する根深い不信感もあいまって、「二次障害への対応」という名目での医療的な介入をほとんど反射的に退けてしまうのである。

このように「降りた当事者」たちも、まなざしを自己身体ではなく社会の側に向けようと意識するまり、自らの身体を省みることを無意識に忌避してしまう可能性がある。そういった自己身体への無関心によって知らず知らずのうちに、身体の声を拾い損ねて、結果的に酷使してしまうという状況に陥るのだ。

こうした二つのパターンによって、脳性まひの身体は、専門家だけではなく当事者からも省みられることなく、酷使されることになる。自己身体への承認から出発した当事者運動が、いつのまにか自己身体の抑圧へと向かい、そもそも運動の羅針盤だった身体の悲鳴がかき消されていくという矛盾。支配者が専門家から当事者に入れ替わっただけで、相変わらず脳性まひの身体は、暴力を振るわれ続けることになるかもしれないという疑念。(本書224ページ)

 


『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎

『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎

ちゃんと読めなかった。西欧の哲学・思想を語るときには、もはや思想を伝えるための言語を構築することから始めないとならないのではないか。無批判に従来の思想書にある言説で自分の考えを披露して満足しているようではこの分野が衰退するするのは無理はない。すでに衰退しているので復活もとうぜん無い。


『どもる体』伊藤亜紗

『どもる体』伊藤亜紗

吃音に関する身体的および精神的分析。実例は多くはない。サンプルも適切とは思えなかった。筆者はアート分野の方らしく、ケースの解釈をその方面へ強引に持っていくことが多かった。吃音当事者が自分の問題として読むのであれば、もっと適切なものがあるのではないだろうか。


『認知症の私から見える社会』丹野智文

『認知症の私から見える社会』丹野智文

筆者は29歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断された当事者。現在も自動車販売会社で事務職のポジションで勤務している。

本書で繰り返し伝えようとしているのは、認知症当事者に決めさせろということ。

いわく、認知症と診断されたとたんに財布も自動車も取り上げられ家族が保護する対象になってしまう。しかし、当事者は昨日までと違う人間ではなく自分の人生を自分で決めていきたいと思っているのだ。

以下、かなり長いが大変貴重な見識だと思うので引用する。

認知症カフェという場所があります。認知症カフェは、ヨーロッパで始まったスタイルを取り入れて、認知症の人と家族を支援することを目的に、2012年から国の認知症施策の一つとして普及が始まった場所です。

認知症の人や家族、地域の人たちが気軽に集い、悩みを共有し合いながら、専門職に相談もできる場所になっています。認知症カフェはカフェという自由な雰囲気の中で、支える人と支えられる人という隔たりをなくして、地域の人たちが自然と集まれる場所だと言われています。

しかし実際には、必ずしもそうした場所にはなっていません。

(中略)

このような、家族の相談が主体の認知症カフェに、当事者が一緒に参加しても、そこは家族がつらさを分かち合う場であり、家族中心で話が進められるから、当事者の居場所はありません。

なぜ、このようなことを例にしたかというと、認知症カフェの話をしても「当事者が来ない」と言っている主催者が多いからです。

「認知症カフェに当事者が行かない理由」、それはカフェに行っても面白くないからです。(本書40ページ)

家族は、隣に当事者がいるのに「この人がいると目が離せないので私の時間が全然なくなりました」など、自分の気持ちだけを吐き出すことがあります。

そのような時、当事者は嫌な気持ちにしかなりません。また、当事者が話をする前に「何年前に認知症と診断され、現在は何歳です」など自己紹介まで家族がしてしまい、当が話をすると「それ違うでしょ」と否定されることがあります。

そんな「場」へ当事者が行きたいと思うはずがありません。

(中略)

家族は「悪いことは言っていない、本当のことを言っているのだから」と思っているはずです。でも当事者のことを思って話をしていることが、当事者を傷つけている場合もあります。そして、家族でもそのことに思いがいたらない人が多いのです。

(中略)

また、支援者自身も自分自身のことも話して欲しいのです。
病気や家族関係に関する一方的な質問、例えば「いつ診断されたの?」とか「何か困っていることはありますか?」等の質問をずっとされると「尋問」のように感じてしまい、話をしたくなくなります。

当事者も「尋問」ではなく「会話」をしたいのです。(本書40ページ)

確かに当事者によかれと思って家族はあれこれと世話したり、禁止したりするが、実際にはプライドもある普通の大人であり、家族の一員であることを忘れてはならないと思う。

認知症についての家族や医師の意見だけでなく、当事者の声が伝わるメディアが世に出るようになったことに社会の変化を感じる。


『誤作動する脳』樋口直美

『誤作動する脳』樋口直美

筆者は40代でうつ病と診断されるが50歳になってレビー小体型認知症と診断される。それ以降、症状と不安とをなだめすかしながら共存している。本書は認知症当事者としてこの世界をどう見ており、どう生きているのかという貴重なレポートである。

異音、幻視、記憶喪失、時間感覚異常、匂い・味覚の喪失など認知症の症状はいろいろあるが、本書では当事者としてどんなときにあるのか、どのように見えるのかを克明に報告してくれている。

私が最初に”人”を見たのは、元気で活動的だった三十代の終わりでした(うつ病と誤診されたのは四一歳レビー小体型認知症と診断されたのは五〇歳です)。

私はそのころ毎週二日、趣味の運動をするために、夜、車で出掛けていました。たっぷり汗をかいて気分よく戻り、車を集合住宅の定位置にバックで駐車します。ピタッと停めた瞬間、心臓が止まりそうになりました。右隣の車の助手席に中年の女性が前を見据えて座っているのです。思わず声を上げそうになった瞬間、女性はパッと消えました。
「えっ、今のは何?」

いくら見てもその女性が消えた助手席は空っぽで、人間と見間違えそうな荷物もありません。ヘッドレストも、カバーなしのシンプルなものです。でも、さっきは確かに女性が座っていて、その女性は透けてもぼやけてもいませんでしたし、顔もくっきりと見えました。中肉中背で、髪は肩までの長さでした。

とはいえ、本当の”人”とも少し違っていたのです。本当の”人”であれば、そこに座っている目的が自然に伝わるはずです。家族を待っているとか、車に落とした物を探しに来たとか……。その女性は、無表情に、ただじっと正面を見据えていました。その佇まいは、夜の駐車場の車の中では不自然でした。

何だったのだろうと考えましたが、見えていた時間はとても短く、消え方は目の錯覚と同じです。「こんな気持ちの悪い目の錯覚もあるんだな・・・・・・」とそのときは思いました。(本書59ページ)

特に衝撃的なのは最初に異常を感じた36歳のときに投薬された薬物に過敏症らしき症状があらわれ、41歳になって精神科を受診してから認知症と診断されるまでの5年間の苦しみ。

その間、医者にはうつ病と診断され、間違った薬物治療を受け続けた。中学生だった子どもたちが大学生と高校生になるこの時期に思い出せることは何もなく、楽しかった思い出は何もないという。

心や感覚に関わる病の治療の危うさを思い知った。家族や医師の声ではなく、当事者の声をこうして直接伝えるメディアがあることは進歩とは言えるのだろうが。