書籍一覧

『不在と読書』並木毬絵

『不在と読書』並木毬絵

文学フリマに行ってふと目について購入することになった。

鎌倉在住の女性の読書三昧の日常を綴った日記。自費出版どころか個人出版なのでどんなことでも本になるのだなあと感心した。

この本は表紙、紙の種類、フォント、文字サイズ、ノンブルがしっかりしている。買おうと思ったのはブースでパラパラめくって本の作りが良かったからで、本の装丁はどれだけ愛着があるのかを計るバロメーターだと思う。

一人暮らしの女性が近代や古典の日本文学を読書したり出かけたり買い物したりの内容で、まさに日記とはこうあるべきとの本だった。武田百合子の富士日記を思い出した。

読み終わって何も心に残らなかったが、それこそがこの本に期待したこと。良い買い物をした。


『身ぶりとしての抵抗 —鶴見俊輔コレクション2』鶴見俊輔

『身ぶりとしての抵抗 —鶴見俊輔コレクション2』鶴見俊輔

鶴見と言えばべ平連の活動や「思想の科学」で有名な哲学者。本書は彼と関わりの深い黒川創が編集したエッセイコレクションである。

エッセイの領域はアナーキズム研究、らい病患者との関わり、安保闘争の時期のデモ参加や座り込み活動について、ベトナム戦争当時の脱走兵の支援活動、韓国文学とキムジハとの関わり、そして田中正造伝などと幅広い。活動する哲学者・思想家らしい幅広さ。

しかしその言葉は決して難解ではない。私はこの本を旅行中にあちこちで読んだものだが没頭するのに時間がかかったことがない。人間との関わりの中で深められる思想、そして言葉はこうあるべきと思った。

一方、現在、哲学を語るものにどのくらいの行動の裏付けがあるのだろうかと暗澹とする。


「苦海浄土」石牟礼道子

「苦海浄土」石牟礼道子

ずっと若い頃に読んだのだが、その時はむしろ事件の経緯と活動に興味があり「これは違う」との感想を持ったものだった。今日に読み返してみるとこれは単なるルポルタージュではなく、ルポルタージュを超越したものだった。

本書は中牟礼による聞き書き部分と公式書類の引用部分が交互に現れる形式である。その聞き書き部分は中牟礼の巫女的要素によるものであると言われている。

さて、その聞き書き部分で特に胸打たれるのは、事件の悲惨さに関わらず美しい水俣の生活風景、また患者の様子である。

「海の上はよかった。ほんに海の上はよかった。うちゃ、どうしてもこうしても、もういっぺん元の体にかえしてもろて、自分で船漕いで働こうごたる。」(本書 p150)

「舟の上はほんによかった。イカ奴は素っ気のうて、揚げるとすぐにぷうぷう墨をふきかけるばってん、あのタコは、タコ奴はほんにもぞかとばい。」(本書 p154)

というように本書には多くの地元民・当事者のエピソードがある。

私が特に打たれたのは第7章「昭和四十三年」で、坂上ゆき女が園田厚生相に発した「て、ん、のう、へい、か、ばんざい」と叫ぶ場面の記述である。チッソといういち企業によって水俣病にされた患者がその状況を訴える機会を得ながらそれができず、絞り出された言葉である。

私はすべてのドキュメンタリーはこのようなシーンを記録することを志向するべきではないかと考える。

それにしても毎回水俣事件に触れるたびにやるせない気分になるのは、当事者に対する地元の意識である。

単なる田舎であった地元に最先端の新たな事業を興し、インフラや教育などで他地域に伍する立場をもたらした「会社」に対する恩。一方で目の前で苦しんでいる患者や漁業者に対する後ろめたさ。生活と倫理の相克。

これはすべての産業公害の地元における共通した意識である。足尾鉱毒事件から現代の各地の原発招致とその結果に共通する構図である。

「タダ飯、タダ医者、タダベッド、安気じゃねぇ、あんたたちは。今どきの娑婆では天下さまじゃと、面とむかっていう人のおる」(本書 p311)

「今度こそ、市民の世論に殺されるばい」とはだしで訴える患者の声。

そしてやがて患者にはその保証・賠償という冷たい現実が突きつけられる。

おとなのいのち十万円
こどものいのち三万円
死者のいのちは三十万円(本書 p136)

本書についてはもっともっと言うべきことがあるのだが、むしろ多くの人に「ただ読んでほしい」というのが正しい気の持ちようだと思った。

また、水俣病事件に触れて、あらゆる真剣な活動は義憤から生じ、すぐれた言葉によって永遠となるのだ、というのも私の得た結論である。

本書巻末に紛争調停案『契約書』資料がある。怒りを持ってこの条文を忘れないでおくことにしたい。

第四条 乙は将来水俣病が甲の工場排水に起因する事が決定した場合においても、新たな保証金の要求は一切行わないものとする。(本書 p409)


「台湾の歴史」若林正丈

「台湾の歴史」若林正丈

台湾の近現代史に焦点を絞り、時系列に重大事件とキーパーソンを配置して歴史解説書としては申し分ない良書。

特に民主化のプロセスでは米国と対岸の影響、国民党と民主化勢力の動向がきっちりとピースが嵌まるような解説に「そうだったのか」とモヤモヤが晴れるような感覚え覚えた。

世界中に未だあまたある圧政と民主化を求める国々において、どうして台湾が成功したのか、その答えを得たような気がする。

それはつまり当時の波乱の高まる海峡情勢において、透明な民主主義を要求する米国に当時の一党独裁政党(国民党)が応えざるを得なかったし、それの受け皿となる民主化勢力が存在したこと。それぞれの動きが現代史の最も良いタイミングで合致したということではなかろうか。

そうした民主化へのプロセスにおいて国民の「台湾大」意識が広がっていく様子が重ね合わせて見える。

それにしても国民党支配から民主化への間において、李登輝という優秀な指導者がいたことが台湾の歴史にとって極めて幸運であったことが本書にある。まさに内外入り組んだ情勢を適切に舵取りし、優れた国の形を作り上げた功労者であろう。

また、補説において台湾の総統選挙について制度の変遷や票の変遷について詳細に解説されるのも読み物であろう。

本書は台湾の近代史、現代史の入門書としては「台湾のアイデンティティ」と並んで必読であろう。


『谷中村滅亡史』荒畑寒村

『谷中村滅亡史』荒畑寒村

日本近代初であり、かつ最大規模の公害問題である足尾鉱毒事件。その事後史である谷中村破壊のルポルタージュ。

社会主義者であり活動家である荒畑寒村が当時の政府、行政、資本家が一体となった農民への不正行為を激烈に糾弾している。かつてはこうしたルポも珍しくはなかったのだ。

ところで、図書館で借りた本書は単行本版で初版1970年、第15版1977年、神泉社刊とある。表紙は小口一郎の版画で迫力がある。凡例によると同氏の足尾鉱毒史を扱った連作で「野に叫ぶ人々」から「人畜におよぶ被害」とのこと。

文章は旧漢文体で綴られており、明治末期はこのような日本語が普通だったことがうかがわれる。確かに今日となっては読み辛いが苦労して読み続けることこそ、この事件が忘却すべきでないことを刻みつける。

日露戦争と産業振興と農民。原発振興と大企業と市民。明治から平成まで見事なコントラストが引き継がれていることをあらためて感じる。


『都市』クリフォード・D・シマック

『都市』クリフォード・D・シマック

半ば埋もれかけた1950年代のクラッシックSFだけどあることで思い立って再読。文庫版は以下だけど実際は図書館で世界SF全集(早川書房)を借りた。

交通機関と通信手段の発展により人間が都市から離れていき、やがて人間同士の縦帯も忌避するようになる。そして人間であることからも離脱し、木星の環境に適した、しかし高度な感覚を持つ生命体へと自ら変換していくことで、その結果人類が滅亡。

地球を引き継いだのがわずかな人類の生き残りとミュータント、ロボット、そして犬族である。そうした一万年に渡る地球史のストーリーを、人類のターニングポイントごとに選択を強いられる宿命のウェブスター家、そのウェブスター家に忠実に仕えるロボットのジェンキンズ、ミュータントのジョオなど多彩な登場人物で描いたのがこの小説である。

しかし、なぜか読み終わってみて強烈に想起されたのがジェームズ・ボールドウィンの一連のノンフィクション。考えてみればハードSFの黄金期である1950年代から60年代は公民権運動の季節でもあった。

慈悲深く人類の行く末を案じる白人の支配層と彼らに献身的に仕え、歓びを持って黙々と手間仕事に精を出すロボットや動物たちの構図は、そのままボールドウィン指摘するところの「ニグロに敬愛される白人」にあてはまる。つまり、あくまでも白人から見た「偉大な国には人種差別はない」という図式である。

滅びゆく人類とロボットと知的な犬類という当時は素直に楽しめた牧歌的なSFを、相変わらず理想の未来とはほど遠い現代から照射すると素直に読めなくなってしまうのは仕方のないことか。あらゆる作品は歴史からの評価を逃れ得ないということだろう。

ところで、本書では圧倒的な感覚をもたらす木星の生命体ローヴァーとか、ミュータントの現世超越的な態度など、当時のヒッピー文化の香りが漂うところもまた魅力的である。

また、本書は動物との共生を描いたSFとしては忘れられた傑作のひとつである。犬なら「都市」(シマック)、猫なら「夏への扉」(ハインライン)、イルカなら「スタータイド・ライジング」(ディビット・ブリン)という風に。

これらはいずれもそれら動物と人間との共感に基づいて描かれている。これらの小説を何度も読み返した自分からすると「新世界より」(貴志祐介)の悪意さえ感じられる動物への忌避感には共感できないのだ。やはり、既存の名著は読んでおくべきであるとあらためて思う。


『次の夜明けに』徐嘉澤

『次の夜明けに』徐嘉澤

台湾の現代文学。台湾の近代史に翻弄される家族の物語を、家族ひとりひとりのモノローグ形式で語る。近代英米文学にあった「意識の流れ」という形式を思い出した。

二二八事件、美麗島事件、美濃ダム建設反対運動、葉永鋕少年事件、七一一水害、高雄地下鉄工事暴動、高雄におけるLGBTパレードなど台湾における大きな歴史的事件を知っておくと理解が深まる。

それにしても本作の淡々とした語り方にあらためて感動を覚える。そして、考えてみれば映画にしても漫画(グラフィックノベル)にしても、台湾メディアのこうした過剰な感情のない表現は通底しているように思える。

徹底した内向である日本とも、すべてにおいて過剰な表現になる韓国とも違ったこうした語り口はどうして作られていったのか。メディア論として興味深いテーマではなかろうか。


『僕は八路軍の少年兵だった』山口盈文

『僕は八路軍の少年兵だった』山口盈文

名著の声が高く一読してそれは間違いではなかったことが分かった。彼の体験は同世代によっては珍しいことでもないのだろうが、こうして本になることは稀有である。

特に中共軍兵士であり共産党員でもあった日本人から見た中国内戦と朝鮮戦争の報告は他に例がないのではないか。

それにしても開拓団あるいは日本軍の最下層兵士であることの苦しさ息苦しさ。「内務班」という言葉を思い出す。

それと対象的な中共軍の明確な軍規が極めて印象的である。

ルール(三大規律八項注意)さえ守れば上下関係はゆるく、脱走も可能だったという八路軍。鉄の軍規で締め上げたはずの日本軍・関東軍が民間人を残して潰走し、多くの兵士をシベリアに抑留させたのとは対象的である。

本書には日本軍のその残酷な上下関係は捕虜収容所であっても維持されたという記述がある。これを読むとそれは規律の問題ではなくそれを自ら受け入れた日本人であることから滲み出してくることのように思える。

「日本軍は強かった」と語る夢見る者たちはこの事実をどのように心で整理しているのだろうかと思う。


『本のエンドロール』安藤祐介

『本のエンドロール』安藤祐介

編集者、作家、デザイナーなどクリエイティブと言われる人々から「出版」を描いた作品は多いが、これは印刷会社の営業マンの目線で描いた出版業界ストーリー。

私もこの業界に関わった経験があり、また巨大印刷会社のある地元生まれ。それで小規模の印刷、製本工場が毎日けたたましい音を立てて機械を動かし、フォークリフトが走り回っていた時代を知っている。

そして、それらが次々と店をたたみ、印刷業界が縮小していくのも体感していた。そういえば本書に登場してくるような天才肌の装丁家の事務所で仕事をしていたことを思い出した。

本書では紙の本がなくなるのではという危機感を底流にし、それでも毎日の仕事をきっちりとこなす業界の人々を描いている。

「眼の前の仕事を間違いなくこなすこと。将来の希望はそれを通じて自ずと現れてくるもの」という本書のテーマは、この業界に限らずあらゆる職業に通じる態度だと思う。

ともすれば破天荒な者、破滅的な者を取り上げがちなフィクションの世界に、こうした地味で真面目な者たちに光を当てた作品がヒットすること、そのことに素直に拍手を送りたい。


『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ:「もう一度始める」ための手引き』エディ・S・グロード・ジュニア

『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ:「もう一度始める」ための手引き』エディ・S・グロード・ジュニア

私自身はボールドウィンを読んだことがない。彼についてはドキュメンタリー映画『私はあなたのニグロではない』を観たことがある程度である。

また、本書によれば、アメリカの人種差別問題こそが彼の人生と活動の唯一最大の課題であり、かつ彼の全作品のテーマでもある。

それ故、軽々にこの本について語ることはできない。そして、彼についてはそうすることを控えなければならないという気持ちになる。それはごく自然に敬虔に感じてのことだ。

それでもあえて本書を紹介するなら、アメリカ黒人の文化と歴史の研究者である著者、エディ・S・グロード・ジュニアがボールドウィンの著作と人生の歩みに沿ってアメリカの人種差別問題について考察するというエッセイである。

もちろん、ボールドウィンの思想についての著者の深い洞察があり、当事者以外(アメリカ人でもなく、ブラックアメリカンでもない)がこの問題の深部についてうかがい知るための貴重な手助けになる本である。

その洞察は当然、現代から60年代、70年代の公民権運動の時代を照射するものとなる。

が、同時に初の黒人大統領であるオバマへの失望の現代、トランプ大統領のいる現代から、ニクソン大統領、レーガン大統領のいた時代へ新たな失望感を照射することでもある。

アメリカの人種差別問題は結局白人問題である。アメリカは偉大な国である。その偉大な国には人種差別などないという嘘を、心から信じなければ白人は生きていけない。そして白人社会は日々、その嘘に苦しめられ仕返しされている。それを正し、その苦しみから逃れるには、その嘘を嘘だと認める以外にない。

それを正すチャンスがこれまでに2回あった。それは南北戦争直後のリコンストラクションの時代と20世紀後半の公民権運動の時代である。そしてどちらも失望に終わった。白人がそれを認めるのを拒んだからだ。

それが私が本書から読み取ったボールドウィンの思想である。

そして、3回目のチャンスがやってきた。トランプ大統領の登場という裏返った現象によって。差別主義者である米国大統領の登場によって白人も有色人種も移民も、その現実に気づかざるを得なくなったからである。

もちろん冒頭に書いた通りこの問題については軽々な見方はするべきではない。あくまでもメモとして私はここに記しているのだ。

さて、もうひとつ考えたのは、台湾社会の人権との向き合い方である。

台湾社会も戦中、戦後と激しい差別と弾圧の時代を経て、今日では人種的多様性を積極的に保護する政策がとられ、国民もそれを受け入れているようだ。政党の人気取り的な面もあるが「移行期正義」の名のもとにかなりの予算をかけて自らの過去に向き合っている。

こうした国民意識と政治の方向性が地政学的な理由だけであるとは私には思えない。国民の意識の深層に人種や多様性を容認する何かがあるように感じる。(台湾人の人種?肌の色の問題?との指摘もあるが、原住民族を中華系住民や日本人はどう扱ったのか?)

それを「アジア的な何か」であるという軽々な意見は控えるべきではないかという、こちらについても敬虔な態度が自分には必要だとも思っている。