書籍一覧

『誤作動する脳』樋口直美

『誤作動する脳』樋口直美

筆者は40代でうつ病と診断されるが50歳になってレビー小体型認知症と診断される。それ以降、症状と不安とをなだめすかしながら共存している。本書は認知症当事者としてこの世界をどう見ており、どう生きているのかという貴重なレポートである。

異音、幻視、記憶喪失、時間感覚異常、匂い・味覚の喪失など認知症の症状はいろいろあるが、本書では当事者としてどんなときにあるのか、どのように見えるのかを克明に報告してくれている。

私が最初に”人”を見たのは、元気で活動的だった三十代の終わりでした(うつ病と誤診されたのは四一歳レビー小体型認知症と診断されたのは五〇歳です)。

私はそのころ毎週二日、趣味の運動をするために、夜、車で出掛けていました。たっぷり汗をかいて気分よく戻り、車を集合住宅の定位置にバックで駐車します。ピタッと停めた瞬間、心臓が止まりそうになりました。右隣の車の助手席に中年の女性が前を見据えて座っているのです。思わず声を上げそうになった瞬間、女性はパッと消えました。
「えっ、今のは何?」

いくら見てもその女性が消えた助手席は空っぽで、人間と見間違えそうな荷物もありません。ヘッドレストも、カバーなしのシンプルなものです。でも、さっきは確かに女性が座っていて、その女性は透けてもぼやけてもいませんでしたし、顔もくっきりと見えました。中肉中背で、髪は肩までの長さでした。

とはいえ、本当の”人”とも少し違っていたのです。本当の”人”であれば、そこに座っている目的が自然に伝わるはずです。家族を待っているとか、車に落とした物を探しに来たとか……。その女性は、無表情に、ただじっと正面を見据えていました。その佇まいは、夜の駐車場の車の中では不自然でした。

何だったのだろうと考えましたが、見えていた時間はとても短く、消え方は目の錯覚と同じです。「こんな気持ちの悪い目の錯覚もあるんだな・・・・・・」とそのときは思いました。(本書59ページ)

特に衝撃的なのは最初に異常を感じた36歳のときに投薬された薬物に過敏症らしき症状があらわれ、41歳になって精神科を受診してから認知症と診断されるまでの5年間の苦しみ。

その間、医者にはうつ病と診断され、間違った薬物治療を受け続けた。中学生だった子どもたちが大学生と高校生になるこの時期に思い出せることは何もなく、楽しかった思い出は何もないという。

心や感覚に関わる病の治療の危うさを思い知った。家族や医師の声ではなく、当事者の声をこうして直接伝えるメディアがあることは進歩とは言えるのだろうが。


『認知症世界の歩き方』筧裕介

『認知症世界の歩き方』筧裕介

認知症の人はこんな事をするとか、こんな事を言うとかの本は沢山ある。しかし、この本は認知症の人には世界がこう見える、と教えてくれる。

「こんなことがありました」「気持ち悪いのでこのようにして過ごしております」など当事者への取材に基づいたモノローグを多用し、認知症の方がこの世界を旅する様子を伝えてくれる。

お風呂に入りたがらない。同じ服を着るようになった。それは当人にとってみればもっともな理由があることだし、理由が分かればさてどうしようかと家族も考えることができる。

なのでこの本は認知症の方が身近にいる人、家族に認知症の方がいる人こそ読むべきものだと思った。

著者はライフデザインの専門家。伝えるのが難しいことを親しみやすいイラストや凝ったデザインでうまく伝えている。読者は最初から読む必要はなく、パラパラとめくって気になったところだけを拾い読みすればいい。

私も家族に認知症気味の高齢者がいる。これがあまりにも良い本なので関係者である私のきょうだいにも一冊ずつ送ることにした。「そろそろみんなも考えてくださいよ」というアピールになったと思う。


『筆録 日常対話 私と同性を愛する母と』ホアン・フイチェン

『筆録 日常対話 私と同性を愛する母と』ホアン・フイチェン

先日見たドキュメンタリー映画の監督による同名のエッセイ集。

台湾の貧しい地方で育ち、早くして結婚した母は夫からの暴力に苦しむことになった。そして幼い娘たちを連れての逃避行。

その母はレズビアンであり次々とパートナーを変えた。一方、父は娘である私(著者)には暴力と執拗な執着だけを記憶に残している。

また、本書では、妹について、家について、遠い存在であった親戚についてを思い出しつつ、これまでの人生を振り返っている。

私が特に興味深かったのは、この母が生きる糧とした台湾独自の葬儀文化、陣頭であり牽亡歌陣である。

台湾では葬儀の度に陣頭という死者を弔いあの世へ送り出すための儀式を執り行う。しかし、葬儀の儀式とはいえ日本人が想像するようなしんみりしたものではなく、にぎやかな音楽と踊りのある派手なものだ。

その民俗芸能を演ずるのが牽亡歌陣である。著者もこの牽亡歌陣に6歳から加わり演じてきた。以下にその映像がある。

牽亡歌陣

今日ではすっかり衰退してしまったこの葬儀文化だが、本書には台湾の葬儀社の日常や葬儀の場の様子などが内部から克明に書いてあり、文化資料としては極めて貴重なものだと思う。

日本語でこれに関する資料はまず皆無ではないだろうか。その意味でも本書の日本語訳の意味は大きいと思う。

先日読んだ「私がホームレスだったころ」にもホームレスが出陣頭で稼ぐことがあると記されている。他国を理解するためには文化民俗への興味が必須であるとあらためて感じた。


『私がホームレスだったころ 台湾のソーシャルワーカーが支える未来への一歩』李玟萱(著), 台湾芒草心慈善協会/企画(編集), 橋本恭子(翻訳)

『私がホームレスだったころ 台湾のソーシャルワーカーが支える未来への一歩』李玟萱(著), 台湾芒草心慈善協会/企画(編集), 橋本恭子(翻訳)

台湾・台北のホームレス事情を追ったルポ。前半でホームレス10名の人生を描き、後半では彼らを支援するソーシャルワーカー7名の声を聞き取った。

日本のホームレスもそうだが台湾でも事情は同じ。いろいろな人生があり、いろいろなルートをたどって路上にたどり着くのだということが分かる。

輝かしい人生のひと頃があり、誰もがちょっとしたきっかけで躓くものだ。それが分かればあちらとこちらは地続きで他人事とは思えない。

巻末にある「人間看板」「出陣頭」「玉蘭売り」など台湾のホームレスが主に従事する仕事、それから「ホームレスの家」の写真も興味深い。

また、中山徹(大阪府立大学名誉教授)の解説は、彼我のホームレス事情を実際面および制度面から分かりやすく解いておりよかった。

台湾には個人の住所を持たず、困窮して露頭に迷う人をさす言葉がいくつもある。行政および法律の条文では「遊民(ヨウミン)」が一般的だが、NGOでは「街友(チエヨウ)」を使用する傾向があり、一般市民からは「流浪漢(リュウランハン)」「流浪仔(リュウランザイ)」とも呼ばれている。いずれも路上生活者を意味する。

 


『日本の包茎 ――男の体の200年史』澁谷知美


『日本の包茎 ――男の体の200年史』澁谷知美

歴史社会学者・ジェンダー論研究者による日本男性の包茎に関する感覚についての論文。

医学的には決して異常ではなく、病気でもなく治療も必要としない仮性包茎。これは実際にも多数派である。それを「恥」とする感覚は日本男性特有のものであり中国にも西欧にもない。にも関わらず多くの男性がこれを隠し、方法があれば治療したいと考えているのはなぜなのか。

澁谷によると包茎についての資料は江戸時代中期にもみつかるという。しかし、多くは治療について言及しているのであって「恥」の感覚とは結びついていない。むしろ、快感を増すものとして肯定的に表現しているものもある。

包茎が「恥」の感覚と結びついたのは明治以降、「徴兵検査」での体験として語られることが多くなってからである。それを考えると「富国強兵」と「男尊女卑」と並行してそれが成立され補強されていったものと考えられる。

この日本男性における「恥の感覚」の歴史的成立については本書では触れておらず、別の研究を待ちたい。

さて、その感覚が社会に悪影響を及ぼすのは現代以降、包茎治療がビジネスとしてメディアと結びついて以降のことである。本書の主眼は、90年代以降のこの「恥の感覚」をビジネスとして悪用した医師たちとメディアの行為、その掘り起こしにある。

90年代の男性誌・若者誌(平凡パンチ、プレーボーイ、ポパイ、ホットドッグプレスなど)に包茎治療を手がける形成外科医院が、記事を装ったタイアップを仕掛けた。それは膨大な量と金額であった。その手法は包茎であることを密かに悩んでいる若者層の不安をあおり、手術をすすめるというのものだった。

それは、そもそも隠微な問題であり他人と相談することができない若者を、専門知識がある大人とメディア戦略に長けた大人が搾取するという行為だった。これに関わった医療関係者もメディア関係者も責任を追求されるべきであろう。

そして、そのタイアップ記事には女性の声が多く掲載されていた。いわく包茎男性は「臭い」「持続性がない」「彼氏にしたくない」などと女性に語らせているのである。

しかし、現実の女性が男性の包茎に対し、こうした感覚を持っていたことはまったくないという。それは男性の編集者が捏造した女性の声であった。

澁谷はこれを「男性の医師が、男性の編集者を使って、男性の若者を搾取するための」構図であるとする。そして「女性の声」はその構図を補強するためのツールとして利用されたのである。

一方で、その搾取された側の男性の怒りの方向は女性にむけられると言う。こうした澁谷のジェンダー論からのこの問題への視点は秀逸である。

本書の目的のひとつに、男性間の支配関係がジェンダー不平等にどのように関わるのか、その一般理論を抽出する、というものがあった。これについて答えを先に述べると、「<フィクションとしての女性の目を用いた男性間支配が、女性にたいする男性の敵愾心を涵養し、女性への攻撃を正当化することで、ジェンダー不平等に関与する」というものになる。

分析で明らかになったのは、男が男を動かすさいには「女」の存在が欠かせないことだった。大部分が男によって占められる包茎クリニックの医師や雑誌の編集者たちは、潜在的な患者を手へと向かわせるために、「包茎ってキライ、フケツ」といった「女の意見」を記事に載した。

この「女の意見」で想起されるのは、ハゲ男性へのインタビュー調査をおこなった社会学者・須長史生のいう<フィクションとしての女性の目>である。これは、まったくのウソとか作り話ものが問われないまま男性たちに信じられている点でフィクションといいうる、女性の意見にまつわる男性からの信念のことである。具体的には「ハゲると女性にもてない」が挙げられる。この信念は本や雑誌に登場するし、当事者にも信じられている。だが、実際「ハゲは嫌い」と女性にいわれたことがある者は調査対象者のなかで皆無だった (本書P216)

「ハゲると女性にもてない』のフィクション性は、「女は包茎が嫌い」という男性たちの信念にも共通するものである。「女は不潔なペニスが嫌い」。これはおそらく本当だろう。その点においでは、まったくのウソとか作り話ではない。ただ、それが一足飛びに「女は包茎が嫌い』につながるかというと、その根拠は問われない。第3章で見たように、多くの女はそもそも男性が包茎かどうかを気にしない。包茎を嫌う女もいるだろうが、だからといってすべての女がそうであることにはならない。「女は包茎が嫌い」という男たちの信念は、根拠を問われないまま流する<フィクションとしての女性の目>である。 (本書P217)

この解説は「「包茎ってキライ、フケッ」と吐き捨てる女性像」にも応用できる。これがよくいる女のあり方として認識されれば、男を手術へと向かわせているのは女であるというリアリテが強固なものになる。そして、包茎男性が迫害を受ける風潮に女も加担している、ということになる。

このことは、男たちの女への敵愾心を養うだろう。「包茎ってキライ、フケツ」と好き勝手なことをいい、手術を男に強いる女ども。包茎言説によって培養されたこの女性像は、「男が生きづらい世の中を作っているのは女である」という、すでに流通している女性憎悪ぶくみの認識をより強固なものにする。この種の認識は、「男を苦しめているのは女なのだから、男には女に復讐する権利がある」というロジックで、しばしば女への攻撃の正当化に用いられる。

これら女への敵愾心、憎悪、復讐心、攻撃への権利意識は、女性へのさまざまな暴力や攻撃として表出するかもしれない。性暴力の動機は「性欲を満たすため」であると思われているが、それだけでなく、女性にたいする敵意、憎悪、攻撃欲、権利意識なども、その動機となっている。そして、それは日々起きている。ネットなどで発言する女性やフェミニストへの攻撃も日常的に生じている。それはネット空間を飛び出して、電凸や怪文書の郵送のかたちを取ることもある。 (本書P219)

かくいう私もその仮性包茎の男性である。当時を振り返ってみると多くのメディアが手術を勧めていたことを記憶している。しかし、一方では「女性って本当にそう思っているのか?」と懐疑的であった。

そうしたタイアップ記事のことも眉唾で見ていたもので、当時の若者もそうしたリテラシーはあった。ウソっぽい記事は何となく分かるものだ。しかし、そのうちの何パーセントかが実際に医院の戸を叩くものだとの実感もある。

さて、現代の日本人男性がその恥の意識を完全に乗り越えたとは考えられない。男性中心意識が社会に温存されている以上、相変わらず「恥の感覚」の利用によるメディア操作に陥るものはいるのだろう。

澁谷は処方箋として「包茎をバカにしない性教育」が必要としている。また、社会全体に「新たな男性身体イメージの構築」が必要とも主張する。現場でどのような方法が適当なのか、今後の議論が待たれる。

本書は、そうした議論のために重要な調査・研究成果となろう。


『ウィーン近郊』黒川創

『ウィーン近郊』黒川創

ウィーンで25年間暮らした兄が自殺した。今は京都に住むその妹がその後の手配のために現地へ飛ぶ。彼女は養子縁組から間もない乳児を連れての旅である。そこで領事官や職場、教会など兄の知人などの手助けを得てつつがなく手配を済ませて帰国するというストーリーである。

あまりない経験であろうが今日では珍しいことではない。そして心象風景も大きな起伏がなくたんたんと綴られる。きわめてパーソナルな感情を個人の枠を大きく出ることなく描くという、私小説という近代日本の純文学の系譜を引き継ぐ作品。

しかし、私小説はあくまでも作家個人の独語がベースであるが、この作品は複数視点による構造でそれが開放感をもたらしている。だから飽きない。

ところで、私は妹の西山奈緒の葬儀場での演説や、領事館の久保寺光のブレヒトやクリムトに関する内的独白は作家が言わせたもので現実のものとは思わない。そしてもちろん作家にはそうする権利があるし、読者にもどうとでも解釈する権利はある。


『武器としての「資本論」』白井聡

武器としての「資本論」 白井 聡

マルクスの資本論の体系的解説書ではなく、同書を素材とした新自由主義打倒への指南書。

「20世紀中庸にあったフォーディズムなどは決して労働者保護政策ではなく、あくまでも国内に消費者育成が必要であったという資本家側の都合によるものである」など興味深い指摘がある。

また、「資本主義的成長終焉の本来の原因は国内に安価な労働力が枯渇したからに過ぎない。低賃金の労働者を求めて海外に移転しても、いずれそれが枯渇するという構造は変わらない。よってそれは単なる時間伸ばしに過ぎない」という指摘は、資本論の21世紀的読み直しによる優れた考察である。

かつて日本を侵略戦争に駆り立てた農村における過剰人口を吸い上げ、使い尽くした時点で莫大な剰余価値を生んでいた労働力のプールがなくなってしまった。これこそが高度成長が終焉した本質的な理由ではなかったか。

アジアでは日本に続いて韓国や台湾が高度成長の波に乗り、その後に中国が大発展し、東南アジアで高い経済成長が実現されていますが、それらの国が成長できた理由もまた、日本の高度成長とまったく同じであり、それらの国の高度成長もまた、日本と同じ理由でやがて終焉を迎えるでしょう。

このように現実の経済を観察していくと、「イノベーションによって生まれる剰余価値は、たかが知れているのだ」とわかってきます。資本主義の発展の肝は結局、 安い労働力にしかなのです。身も蓋もない話ですが、日本の経済発展が頭打ちになっている時代だからそう見えるのではなく、海外も含めて経済発展の歴史を振り返ることで、「結局、すべての国がそうだったのだ」という真実が見えてきます。

高度成長期の金の卵たちは、上京するまで田舎で貧しい暮らしをしていました。 そういう貧 しい若者たちがいたからこそ、 高度成長が可能になったのです。その若者たちは、地元で自足 して、幸せに暮らすことができなかったからこそ、都会へ出て就職しようとしたのです。 それは資本の側から見れば、地方の農村共同体に密着して生きていた人たちを、その共同体から引きはがし、安い労働力として生産現場に連れてくることでした。(p212)

しかし、新自由主義への対抗手段として「階級闘争」を挙げるのは今日の社会で受け入れられるのだろうか。私は極めて否定的である。

今日の社会はマルクスの時代から根本的に変化していないとする本書の指摘には同意する。しかし、それ以降の歴史において社会制度には多くの試行錯誤があった。そして、それによる洗練もあったと思う。本書に限らず、今日、新自由主義への批判も多く聞かれるようになった。なので私はより洗練された社会制度改革に希望を見ている。

米国では民族的(白人至上主義的)分断政策を全面に押し出した政権が否定され、社会民主的政策が政権に近づきつつある(バーニー・サンダースしかり、バイデン大統領のインフラ投資プランしかり)。

日本でも野党第一党は新自由主義的自己責任論から支え合い社会への転換を訴えるようになった。そんな時代でもあり、より今日的な社会改革論が今日の社会では馴染むのではないかと思う。

それにしても本書で引用されている資本論(向坂逸郎編訳、岩波文庫版)の読みにくいこと。元から難解なこともあるだろうが翻訳の問題もあると思う。私は読んだことがないが、これまで日本で多くの学者や学生がこの理解しにくいテキストに取り組んできたことに暗澹たる思いがする。

白井が言うように資本主義を理解する基本中の基本のテキストであるならば、もっとこなれた翻訳書がいくつも出てもいいと思うのだが。

 


『枝野ビジョン 支え合う日本』枝野幸男

『枝野ビジョン 支え合う日本』枝野幸男

立憲民主党党首の政策表明。「党の綱領とは違う」とはしながらも政策の方向性はこれに沿って策定されることは間違いない。

枝野の政治観は「保守・リベラル」。それは安倍以前の自民党政治と親和性が高い。そして枝野の保守とは、近代以降のわずか150年間ではなく1500年に及ぶ日本の歴史を尊重するものである。一方、現在の自民党が謳う保守はこの近視眼の方であることは言うまでもない。

本書で枝野は政権交代に向けて現在ある社会のあり方ではなく、もうひとつの社会のあり方を選択肢として提示している。それは「賃金の底上げ」「福祉重視」に基づく「内需拡大」である。

それは新しい考えでなく、折に触れて政策ビジョンとして共有してきたし、過去の枝野の著作でも表明されてきた。その政策を実現する政権が取れなかっただけのことである。

ところで、本書でちょっと物足りなかったのはゲームチェンジャー的政策への言及がなかったことである。「全国一律最低賃金」「ベーシックインカム」などに賛否は別にして言及してほしかった。

また、最近話題の資本主義や民主主義への疑問などもそうである。いわく「資本主義は根本的に環境保護に対立するもの」「SDGsは企業の無制限な経済活動への言い訳に過ぎない」など。

次期リーダーを狙う者として、こうした議論や話題を「意識している」くらいは言うべきではなかろうか。

さて、今回の総選挙ではようやく野党共闘が実現しそうである。選挙区調整がすすめば自民党と1対1の構図ができる。国民は自民党的「自己責任」社会か「支え合い」社会かという選択をすればいいだけである。いずれにしても今年中には結論が出る。


「白魔―アーサー・マッケン作品集成〈1〉」アーサー・マッケン

「白魔―アーサー・マッケン作品集成〈1〉」アーサー・マッケン

有名な「パンの大神」を読んでないと思いだして読んでみた。高橋洋の映画「恐怖」はこの小説にインスパイアされたとのことで、確かにモチーフをなぞっている。

脳のある機能を刺激すると本来見えるはずのない物事が見えるようになり、それでその処置をされた女が正気を失っていき、やがて何か邪悪なものを産み落とすという。

それはそれで面白かったのだが、この19世紀末の小説で楽しむべきはホラー風味よりもビクトリア朝後期の雰囲気だと思った。

それは篤い宗教観と科学の進歩が渾然となった時代だが、一方で人権やジェンダーにははるかに意識が低い。その時代の、相続と遺産が生活の糧の高等遊民が日常の怪異に取り組んでいくというストーリーが多い。

これを読むと、この頃の先進国(英国)の一般人の感覚が現代とはかけ離れていることが分かり興味深い。

そもそも当時と今では小説というもののあり方が違う。それはネットはもちろん、テレビもラジオもない時代。小説は時間つぶしのための主要な娯楽なのだ。

それでこれらの小説はほぼひとり語りないしは会話文で延々とつなげる構成で、それは当時としては小説のあるべき形だったのだろう。

なのでホラーファンからは評判の低い「生活の欠片」はホラー、怪異、恐怖小説として読むべきものではなく、当時の人々が他人の人生を垣間見て時間つぶしをするためのものとして優れている。


当時の先進国市民とは「小説」を経験した初めての世代だったのだろう。現代では当たり前に映画やテレビを通じてドラマがあるため意識することすら難しいが、「小説(ドラマ)」というものが人類の意識にとっていかに革命的な意味を持つことかあらためて認識するべきではないかと思った。

当時の人間は小説を読むことで、自己意識を離れ、あるときは他人の人生に同一化し、あるときは他人の人生を大所から俯瞰する感覚を得たのだ。それはそれまで日常しか知らなかった人間にとってなんという自由の感覚であったことか。

そんなことを考えたので古典的作品を評価するとき、当時の人間はどんな意識で生きており、この作品を手にとったときどう感じたのかという視点が常に必要だとも思った。


「台湾、あるいは孤立無援の島の思想」呉叡人

「台湾、あるいは孤立無援の島の思想」呉叡人

台湾人の研究者による台湾に関しての歴史および国際政治評論集。しかし、評論だけではなく詩的な表現や書簡形式、エッセイ風もありと多様な表現形式である。

台湾社会が、自国についてはもちろん、世界政治を、歴史を、日本を、東アジアをどうみているのかが分かる。

台湾をめぐる各国のせめぎあいが微に入り細に入り記述されるのでそれだけでも興味深いのだが、何よりも彼にとっての自国である台湾への絶望と希望が胸に迫る。彼は台湾の現状に悲観的であるが同時に高貴に前向きである(「もうやっていられない、でも、やっていくのだ」サミュエル・ベケット)。

呉は台湾のことを帝国の狭間にはまり込んだ「賤民」と呼ぶ。しかし、それは自己卑下ではなく高らかに「賤民宣言」をする。こうした歴史を持ち、こうした国際的立場にある国にしか持ち得ない特別な立場であることから「賤民」と自称するのだ。

台湾は連続植民支配の歴史、国民党政権による白色テロ、中国の国際的圧迫を受けながらも今日の市民参加型の民主主義(「日々の人民投票」「個人と国家の契約関係を絶えず更新すること」)を実現した。そのことはかつての宗主国であり民主主義の先輩であったはずの日本の立場を逆転した。私はそれを素直に羨ましいと感じる。

この本を読んでいてつくずく思うのは、日本の隣国(台湾と韓国)に民主制度があることの幸運である。

特に台湾の戦後史を見れば、優れた民主主義を自ら獲得することに危うく間に合ったという感がある。例え各種の国際機関からは正式には認められなくとも、その点で市民に支持された正当な民主国家であるとの評価は揺るぎないだろう。大国であろうとも民主的でない国(世界にいくつもある)よりも、台湾は高い尊敬と高い評価を勝ち取っているのではないだろうか。

日本では最近、台湾ブームであるという。観光地としての台湾、親日国としての台湾が人気なのだが、台湾と日本には辛い過去があった。また、台湾には国際政治に今なお翻弄されている現状がある。一方で多民族国家、社会運動、政治制度では世界中が目をみはる実績が顕れつつある。

この本は単なる観光地としての台湾に興味を持った日本人に、そうした今日の台湾社会をより深く理解するための最適な一冊であろう。

なんと言っても初めての政権交代(国民党・李登輝から民主党・陳水扁)が2000年。それから2008年に国民党への揺り戻し(政権奪還・馬英九)があってから、今日の再政権交代(民進党・蔡英文)が2016年。まさに今日の台湾社会は現代史を生きているのだ。

以下、いくつか特に興味を持ったことを挙げる。

  • 日本だけが台湾研究の伝統を持っていること
  • 台湾人が朝鮮戦争で従軍したこと。その軍人が後の文革で地方民族主義者とされ粛清されたこと
  • 村山談話とは世界的に類を見ない旧宗主国による植民地支配への謝罪であったこと
  • 2010年の五大都市選までの期間に市民運動が活性化し、「もうひとつの熟議」が出現したこと
  • 台湾の市民運動が自らの社会に求めることは、「民主的、多元的かつ開放的・公正であること」「正義が保たれていること」「文化的想像力や豊かな生態環境があること」「進歩的な国際視野があること」「経済において持続的であること」
  • 「民進党独力では不可能である。社会運動と連携しなければならない」(蔡英文のスピーチより)
  • 台湾の市民運動が台湾社会の求心力であること

最後に翻訳が優れていることを指摘したい。誤字・脱字はもちろん、適切でない表現もまったくない。これは呉が日本語に堪能であることもあるのだろうが、翻訳者の駒込武の正確な仕事を称賛するべきと思う。