書籍一覧

「順列都市」グレッグ イーガン

「順列都市」グレッグ イーガン

小説としてはちっとも良くないのだが、そのセンスオブワンダーは手の届かない高みにいるよう。読んでいて目眩がした。90年代ハードSFの真価を伝える傑作。

人間の肉体と精神がコピーされてサーバー内に存在できるようになった世界。そこまでならよくある設定であるが、この世界ではそのサーバー性能が入札によって変動する。

裕福なものは自前のスーパーコンピュータで現実の世界とリアルタイムにやりとりできるので、不死者として企業のトップに永遠に君臨することができる。

一方で貧しいものは低性能のサーバーしか使えないので16分の1程度のスピードでしか存在できない。そして、いつしか現実世界から分離されて低解像度の世界に囚われることになる。

(以下ネタバレあり)

そこまでならまだ理解の範囲内なのだが、コピーから現実の人間に戻った主人公のピーターが得た宇宙についての洞察からはついていけない。塵宇宙論から発想された宇宙の限界を超えても拡張し続けることができるコンピュータのアイデアとか、因果論を超えた6次元の宇宙観は私には理解できない。

しかし、これによってつくられるスーパーサーバー世界での展開にはワクワクした。このスーパーシミュレーション世界に未知の要素を導入するため、その内側にさらにオートヴァースという仮想宇宙を作り、そこに生命の自然発生を仕掛けたというのだ。

そして、発生したアメーバ状の生命は順調に進化し、やがて知性を持つようになるという展開である。

クライマックスにはその仮想生命とそれを創造したスーパーシミュレーション世界のどちらが自然論的に正当なのかという議論が発生。そのことによってその世界の存亡を左右する事件が起きてしまうという。これはサイエンスをベースにした究極の宇宙論小説である。

しかし、小説と言うには人間が魅力的でない。そもそもそれぞれの人物の関わりが極めて少ない。

主人公のピーターとその妻、主人公と裕福なコピーであるトマスの関わりはいずれもとても薄い。サイドキャラクターのピーとケイトに至っては本筋とまったく関わらない。主人公とソフトウェアデザイナーの女性とは密接な関係にはなるが決して親密な関係でない。

ということで人間を描く小説としては低評価だが、そのSF的アイデアは飛び抜けて素晴らしい。プラスマイナスすれば高評価であることは明らかである。


「宇宙消失」グレッグ イーガン

「宇宙消失」グレッグ イーガン

「時間軸」という今どきのラノベで消費される単なる「仕掛け」とは違い、量子宇宙論、ナノテクノロジー、大脳生理学を素材にハードSFの素晴らしさを堪能させてくれる傑作SF小説。

ある日冥王星の外側にすっぽり太陽系を覆う構造物ができてしまい、その他の宇宙から隔離されてしまった世界。閉ざされた部屋から壁抜けをしたという記録のある女が誘拐され、主人公のニックは調査員としてその女の捜査をすることになる。

普及した「モッド」というナノマシンによって大脳生理を操作することが当たり前になった世界。「波動関数の収縮」を可能にするモッドによって人類は物理世界の状態を思いのままにする能力を手に入れることになるのか。人類が宇宙的隔離された理由とは何か。それらの謎がやがて明らかになる、というストーリー。

1999年の作品だからもう20年前だが最先端科学理論をストーリーに見事に昇華させており、まさに知的興奮を堪能させてくれる。前野昌弘の科学解説も素晴らしい。これはSFのオールタイム・ベストの一冊であろう。


「民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代」藤野裕子

「民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代」藤野裕子

江戸期以降の民衆による暴力行為をテーマとしたエッセイ。対象の選択が恣意的なので研究論文とは言い難い。なのでエッセイとした。

取り上げるのは江戸期の「世直し一揆」、明治に入ってからの「新政府反対一揆」、同じく「秩父事件」、明治時代後期の「日比谷焼き討ち事件」、それから大正時代終了間際の「関東大震災時の朝鮮人虐殺」。

日本の中世、近代史の民衆による暴力行為をテーマとしながら、なぜこの5つの事件を取り上げたのかについて納得がいかないし、実際に説明がなかった。

また、前の4つの章はそれぞれ資料読みと解釈としては興味深いものだったが、最後の章だけは著者独特の日本人論に踏み込んでおり違和感がある。歴史研究者としては実証的な態度に欠けるのはないだろうか。

日本史における民衆暴力を考えるのであれば、中世の一向一揆がある。江戸時代にも多くの農民運動があったというのがイメージとしてある。もし、それが間違ったイメージであるとするならばそれを解きほぐすことが必要だろう。

明治期であれば足尾鉱毒事件の反対運動などメルクマールとなる事件が多くある。昭和時代にも多くの学生運動が暴力的な事件を起こしている。

こうしたよく知られた民衆暴力行為の事例に触れず、前の4つの事件のみを前フリとして取り上げ、最後の事件に2章を割く。これは通史を語るものとして適切な態度とは思えない。

著者が特に関東大震災時の朝鮮人虐殺事件に興味があり、自分の考察を展開したいのならストレートに「関東大震災時の朝鮮人虐殺(を考える)」などのタイトルを付けるべきだろう。そうであれば私は本書を手に取らなかった。

 


『パワー』ナオミ・オルダーマン

『パワー』ナオミ・オルダーマン

突然すべての女性の肉体に備わった電撃能力により男女の立場が逆転する世界を描いた小説。

科学の裏付けを顧みない姿勢、架空の歴史資料・遺跡・遺物を提示していることから、これはSFとは言い難い。また、こうした条件によって社会がどうなるのかという分析があるわけではないので社会シミュレーション小説とも言い難い。

しかし、現状の男性社会へのほぼ憎悪とも言える厳しい姿勢は一読に値する。女性がこんなにも男性に恐怖と怒りを持って日々を過ごしているのだという認識を、世の男性一般に突きつける。

小説としては時間軸の構成や結末のあやふやさで完成しているとは言い難い。また、性の対立ばかりをクローズアップしており、男女の親和性は顧みられないなど、文学としての完成度も低い。しかし、その迫力はただごとではない。その迫力だけでも読む価値はある。

「指先ひとつでこの瞬間にもこの男に苦痛を与えることができる。もちろん命を奪うことさえも」という感覚を女性が日常的に持つ。そのことで職場で男性に遮られ、軽視されていた女性のふるまいや意識がどのように変わるのか、男性がどんなに卑屈になるのか。この社会では人権を保護されるのは女性ではない、男性の側なのだ。

また、男性がひとりで夜道を歩くとき、女性たちが道端にいるだけでレイプの恐怖に怯えなければならない。実際にそうした事件が多いから。

この小説は現状の女性の状況をそうして反転してみせる。本書の読みどころはそこにあると思う。

渡辺由佳里による同書解説全文はこちら

 


『メイドの手帖』ステファニー・ランド

『メイドの手帖』ステファニー・ランド

副題にある通り、「最低賃金でトイレを掃除し『書くこと』で自らを救ったシングルマザーの物語(エッセイ)」。

ルシアン・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』 は20センチュリー・ウーマンの物語だったが、こちらは21世紀、ゼロ年代以降の米国人女性の過酷な人生が綴られている。

ステファニーは20代で予想外の妊娠、交際中の相手によるDVを経てシングルマザーとして自活を余儀なくされる。

両親はすでに離婚しそれぞれのパートナーがいる。苦境にいるステファニーは援助を求めるが母親はこれを拒否、父親は援助したくても貧困からそれができないという状況。

そういった家族や親戚の援助がないことからさまざまな公的援助を得て、なんとか若い母親と乳児の生活をつないでいくことになるが、当初は貧困者用のシェルターにいたこともあるという。

本書では米国の貧困へのさまざまな公的制度が詳しく記されているが、日本ではこうした場合どうなのかと比較してみるのは興味深い。

おそらく生活保護と自治体の住宅補助、健康保険の免除、保育園への優先枠などを組み合わせて行くのだろう。厚生省のひとり親家庭支援のパンフレットを見ると支援制度は多岐に渡っており、このうちから適切な組み合わせを選択するにはソーシャルワーカーの支援こそが必要だろう。

本書で興味深いのはこうした社会的弱者への支援(福祉と言い換えてもいい)に対する米国の一般の人々の意識である。

ステファニーがフードスタンプ(食品購入支援のためのカード)をレジで使っているのを見た人、あるいは公的支援を受けていることを知った知人は「気にしなくていいのよ」と言うことが多いという。つまり私達の税金からあなたたち貧困者を救済する予算を出している、という意識が言わせる言葉である。

それはそれを受けるステファニーにも深く根ざしており、彼女も政府からの支援を受けることへの後ろめたさを常に感じていることが本書には繰り返し書かれている。

日本人にも「お上の世話にはなりたくない」と生活保護を受けることを敬遠する意識はあるが、米国ほどこうした自助・自活が意識の根本に行き渡っているわけではない。

米国の「自分の生活や人生は自分でなんとかする」という意識の暗い面は限りなく息苦しい。本書でも結局は「本を書くこと」で自らを救ったというサクセスストーリーである。映画「幸せのちから」でも結局は成功しないとならなかった。

成功は一部の者が勝ち取るものであり、その影には成功しなかった者がいるのは必然である。スタート時点のハンディ(貧困、障害、出自、国籍)を是正する制度に目を向けることは多いが、結果として成功しなかった者、失意のうちに老いる者、障害とともに生きる者への視線が米国には極めて薄い。

彼らは限りなく透明で見えない存在なのだ。そのことを図らずも本書は表していると思う。障害者はスポーツや文化的に活躍しなければならないのだろうか。高齢者や障害者はそのままで価値があるという視点があまりにも米国には欠けているのではないか。

さて、ステファニーがこうした状況から選んだ職業は掃除婦だった。日本では馴染みのない職種だが米国では一般的だという。日々の掃除機かけや洗濯などは自分でやるのだが、2週間に一度ほどのバスルームやトイレの掃除は掃除請負会社に発注し掃除夫を派遣してもらう。

こうした慣習が家庭の主婦にどう感じられているのかも興味深い。当然クライアントと請負の関係なのでビジネスライクに行われる場合が多い。掃除婦は「透明」な存在として扱われることでプライドを著しく傷つけられながら従事することになる。

しかし、一方では家庭に他人を受け入れ、家事という仕事の一部を担わせることに主婦の心中には複雑なものがある。そこには階級意識やジェンダー(あくまでも自分の)意識も見え隠れしている。

これについて渡辺由佳里による本書の解説から引用する。

「私は私の掃除婦が大好き」とツイートしたイギリス人女性もいる。だが、あるアメリカ人女性はその女性に対して「親愛なるイギリス人のレディへ。私はヨチヨチ歩きの子どもを持つシングルマザーだったときにあなたの家を掃除した者です。私はあなたたち全員が大嫌いです。あなたのトイレに肘まで手を突っ込んで掃除することを私がどれほど『誇りに思っていた』かなんて、あなたがインターネットで言っていたら、私は喜んであなたの窓にレンガを投げ込んだでしょう」と怒りを顕にした。ステファニーは、それに「同感」とコメントしてリツイートしただけだったが、彼女がこのツイッター論争に対してどう感じているのかは明らかだった。(P406)

日本ではこうした境遇でどういった職種につくのだろうか。思いつくのが介護職。訪問介護などは各家庭で家事援助をするという意味でもこれに近い。確かにそれは低賃金であり、老い、排泄、認知症など人の辛い部分に向き合う仕事である。それでも世間からはエッセンシャルワーカーとして一定の評価がされ「透明な」存在とはみなされていない。

ある職種について、それを使う側も従事する側も「転落」意識を持つのは階級社会の表出ではないだろうか。私も米国で生活したことがあり、日本から家族で赴任した主婦の方の話を思い出すとみな一様にメイドが苦手だと言っていたのを思い出した。

日本人は、そうした見え隠れする階級社会意識という緊張感の中でメイドを受け入れて過ごすよりも、自分で掃除洗濯した方がいいということなのだろう。

掃除婦としての日々の苦闘についてバーバラ・エーレンライクの序文から引用する。

ステファニーのような暮らしを強いられなかったあなたは幸運だ。『メイドの手帳』を読めば、それが「足りないこと」に支配される厳しい暮らしだとわかるだろう。十分なお金もなければ、ときには食べものもなかった。ピーナッツバターとラーメンの生活だ。マクドナルドはめったにないご馳走だった。(P8)

ステファニーの物語は、破滅的な崩壊へと弧を描いているかのように見える。まず、一日に六時間から八時間も続く、荷物の移動、掃除機を使っての掃除、床磨きという身体的な消耗がある。私が働いていたハウスクリーニング会社では、同僚のほぼ全員が神経痛を患っているようだった。若い人では十九歳だったというのに―背中の痛み、腱板損傷、膝と肘の痛みに苦しんでいた。ステファニーは、一日の摂取量を大幅に上回るイブプロフェンを飲んで痛みをごまかしていた。顧客のバスルームにオピオイドが保管されているのを見て、手が出かけたときもあった。処方薬、マッサージ、理学療法、あるいは疼痛処理のスペシャリストに診てもらうことは、彼女の選択肢にはなかったからだ。
このような生活が原因の身体的疲労に加え、ステファニーは精神的な困難にも直面することになる。(P9)

ところで、ステファニーの方法で特筆すべきはSNSの活用だ。

彼女は貧困状態にあるシングルマザーとしての日々をブログに書き、facebookで掃除婦の顧客を見つけ、引っ越しの寄付を募り、クレイグズリストで不要なチケットを売った。それはとても現代的であったと思う。

また、掃除婦として訪問する家の状態からその家の家族を想像する想像力や表現力は非凡であることは間違いない。彼女は自分のその非凡な能力を早くから意識し、つらい毎日の生活のうちに学ぶ時間を見つけなければならなかった。そのための苦闘は素直に感動的である。

 


『もう一つ上の日本史『日本国紀』読書ノート 古代~近世篇・近代~現代篇』浮世博史

『もう一つ上の日本史『日本国紀』読書ノート 古代~近世篇・近代~現代篇』浮世博史

質のわるいベストセラーにあやかって正しい歴史を伝えようとするところは「間違いだらけの少年H 銃後生活史の研究と手引」と同じやり方。これもあの本が売れれば売れるほどその数パーセントが正しい歴史認識に目覚めるわけで、その受け皿としてこうした本が出るのは悪い話ではない。

著者は現役の歴史教師。それでこの本のベースとするのはもちろん教科書。あくまでも一次資料に基づいて言えることのみを集大成しているのが教科書である。同じ歴史を扱う書籍でも、よくある歴史小説(司馬遼太郎など)や歴史に素材をとった啓発本とはそこが違う。

この本にあるように「歴史説明するのか」「歴史説明するのか」は大きな違いがある。だがそれ以前に「日本国記」は、これはあくまでも個人の解釈であると明記せず、日本の歴史の決定版であるとしてあるのは大きな問題ではないか。これはメディアとして明白なルール違反である。

その時々の体制が旧体制を否定するために通史を書くことは知られている。江戸時代にもあったし、明治維新後にも戦時体制にもあっただろう。それへの反省から真面目な研究者たちによって歴史を科学的なものとする努力が続けられてきたのだ。

こうした個人的な歴史観を臆面もなく日本の通史とする作家の態度もそれを出版する出版社の態度も批判されるべきであろう。

しかし、あらためてそれへの科学的批判をしてみると「あの本には間違っているところもある」程度ではなく、この本のように元本の倍になってしまうという体たらくだ。

さて、本書では「通史はネタフリとオチである」とする。ひとつの出来事やある時代に限っての記述ならば別だろうが、通史は始まりがあって、次の時代に続いていくものである。この時代にこういう事があったのでこうなった、そしてその後こうなっていく。ということは各時代への深い知識と全体への広い歴史観がなければ書けないことだろう。

一方で「日本国記」では「こうあってほしい日本史」を裏付ける資料のみを提示し、それに則って架空の歴史を創造している。特に近代~現代篇では百田のこうあってほしい日本、百田のこうあるべき韓国、中国を記述するだけのために都合のいい言説のみを取り出し、科学的・批判的態度が著しく欠ける言説が目立つ。

また、本書では現代の歴史教育では世界史との関連で解釈するのが普通、との指摘もあり、これにはハッとなった。元寇や幕末のいち事件を考えるにしても当時の世界情勢を見ながら理解しなければならないという。それは自分が学生だったときにはなかった視点であった。

 


『富士日記』武田百合子

『富士日記』武田百合子

もう40年前になるが、私の父は風流な人で毎年8月になると猛暑の東京を逃れて精進湖で過ごすことにしていた。当然、その家族、母、私(小学生)、妹(小学生と幼稚園児)もそこで過ごすことになる。

釣りが好きで何度も訪れていた精進湖で知り合った地元の方から、空いてた古民家を毎年一ヶ月だけ借りたのだ。

精進湖はとにかく涼しいところで夜は布団をかけて寝ていたくらい。当時はテレビが映らず、数年後にアンテナを立ててようやくNHKだけが見られるようになった。

毎年、夏休みの一ヶ月は友達や知り合いとまったく離れて過ごすことになったが、私はそれが結構気に入っていた。そうした夏は高校生まで続いた。

さて、この本『富士日記』は武田泰淳の妻、百合子による富士桜高原の別荘での暮らしを記録したもの。昭和39年から51年までだから、その終盤で私の家族が精進湖に行くようになったのと重なる。

百合子と同じく私の母も自動車を運転した。母の運転で朝霧高原や甲府のワイナリーへ行ったものだ。その母も82歳。

この本を読んでたら懐かしくなって母に薦めたのだが、目が悪くなって活字を読む気がしなくなったとのこと。そこでかいつまんで読み上げてみることにした。そうしたらじっと聴いていて、ときおりコメントや昔話をさしはさんで楽しんでいる。これからもささやかな親孝行として何度かやろうかと思う。

『富士日記』は3度の食事に食べたもの、地元の店で買ったものとその金額、地元で知り合った人々との交流、当地での作家仲間との交流、編集者の訪問などを記している。それは日記ならではの簡潔かつ率直な書きぶりである。

それは別荘地を購入した年に始まり、夫泰淳の病死で終わる。はじめの頃はかなり頻繁に訪れ、あちらこちらと建物を修繕していたが、だんだんと足が遠のき、やがて死の気配が漂うようになる。

ある夫婦(と娘)の人生の輝きとその光が弱まっていくのがつぶさに読み取れる。これは日記文学の傑作だと思う。

それにしてもひと夏に何度も自動車で東京と富士山を往復し、夏以外にも毎週のように行っている時期もあった。中央高速のなかった時代には下道を使っていたのだ。つくずくパワフルな奥さんだと思うし、かっこいい女だったのだと思う。

いいだももによる下巻の後書きを引用する。彼女もまた戦後の飢えを経験した世代であることに身近なものを感じる。父も飲むとよく学童疎開のことや食糧難のことを繰り返し、繰り返し話したものだった。

戦乱と栄養失調の焼け跡を生きた「アプレ・ゲール(戦後世代)」には“アプレ”なりのイン・モラリティのモラルがありました。わたしの知っている鈴木百合子は、よるべなき姉弟として、中学生の修を連れていつも腹をすかせながら焼け跡の京浜をうろついているニヒルそのものの少女ー物喰らうニヒル美少女のイメージです。


『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』ルシア・ベルリン

『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』ルシア・ベルリン

ルシアは1936年生まれ2004年死去の20センチュリーウーマン

少女時代はアラスカや米中西部で貧しい生活を送り、女学生時代は脊柱障害でギブス装着の毎日を余儀なくされる。その後一転して南米チリでの豪奢な生活をおくる。

しかし、帰国後2回結婚し、2度めの夫と離婚してからはシングルマザーとして4人の子どもを育てることに。その間、家政婦、電話交換手、看護婦、高校教師などの職業に就く一方で、自身もアルコール中毒に苦しめられた。

本書はルシアのそれぞれの時期に素材をとった短編小説集である。

この小説群には事実ではない部分が多くあることを承知しつつではあるが、この時代の米国女性の多様な人生に驚く。

父に認められた娘としての幸福な少女時代。アルコールと虐待に明け暮れる母との関係。貧困の次には裕福な生活、その次にはまた貧困生活と数年おきに入れ替わる人生。幸福な結婚生活にもドラッグが影を落とし、自らもアルコール中毒によってせっかく得たまともな職を危険にさらす。

おそらくこうした人生を送った同時代の女性はルシアひとりではなかったのだろう。本書はこの時代の女性の人生の語り聞きとして興味深い一冊だった。

しかし、小説としては軽やかなニューヨーカー風エッセイの粋を出ない。その都度思い出した事を思いのままに言葉にしただけである。小説が傑作と呼ばれ、永遠性や普遍性を得るためには作家の持続性と忍耐、根気が必要なのだと思う。

 


「死ぬ時はひとりぼっち」レイ・ブラッドベリ

「死ぬ時はひとりぼっち」レイ・ブラッドベリ

ブラッドベリの1985年の長編。主人公は売れない小説家。雨の夜、ヴェニスビーチ行きの路面電車で後ろに座った男に「死ぬときはひとりぼっち(”Death is a lonely business.”)」と囁かれるところから始まる探偵小説。

それだけでファンならぞくぞくするのだが、期待を裏切らないノスタルジーと夜のイメージの奔流に心地よく流されていく小説体験。

時代は戦争が終わってしばらく、1949年頃。その頃のヴェニスビーチはリゾート開発が失敗に終わって沈滞していたらしい。しかも、ブラッドベリはそこを、年の3分の1が雨と霧と霞に包まれる街にしてしまった。あとはそこに漂う人々、忘れられた人々を描写していくだけでいい。

ヴェニスは私も80年代によく通った。意味不明の水路や荒れ果てたピアにかつての高級住宅が点在している妙な街だった。ただ明るいだけのサンタモニカとは違って貧乏な異国人にはそこがしっくりとした。

久しぶりにブラッドベリの言葉の宝石箱を堪能した。原文でも読みたくなった。

 


「専門知は、もういらないのか」トム・ニコルズ

「専門知は、もういらないのか」トム・ニコルズ

国際政治を専門とする米国の大学教授による現代メディア論。インターネット、Google、ケーブルテレビの台頭、知性を敵視する大衆、その結果としてのトランプ大統領などタイトルから想定できる範囲を十分カバーしている。

特に興味深かったのが米国の大学事情についての章「高等教育―お客さまは神さま」。現役の教育者としての著者からの米国大学レポートである。

日本もそうだが米国も一部の上位校を除いては大学がレジャーランド化しているという。

また、自己評価と多様性の尊重を初期教育から持たせることが米国の伝統的な教育姿勢としてあるという。「自分は one and only で素晴らしい」というわけだ。

その結果、大学に来て講師に対して「まあ、あなたの考えもぼくの考えも、同じくらいいい推測です」と普通に発言し、「違う、違う。わたしの推測のほうが君の推測よりもずっといい」と教授が言うことになる。学生の不思議そうな顔が浮かぶようだ。

日本人は学生も社会人も低い自己評価と従順な姿勢が問題とされることが多いが、ここが大きな違いと感じた。そして両方とも問題とされている。

(前略)準備不足の学生が大量に大学に入学しているもうひとつの原因は、肯定と自己実現の文化が子供に失敗を突きつけることを禁じているせいだ。一九九五年にロバート・ヒューズは、アメリカは「子供たちが自分は愚かだと思わないように甘やかす」文化だと書いている。(p97)

彼がそう感じるのも無理はない。今の子供たちはよちよち歩きのころから、大人をファーストネームで呼ぶように教えられてきた。彼らの「成績」は、成績を伸ばすように鼓舞するものではなく、自尊心を高めるものだった。そして彼らは、まるでゴルフコースそばのコンドミニアムを内覧するかのように大学を見学して、入学してくる。こうしたささいな、だが重要な、大人による子供への譲歩が続くことで、子供の学ぶ力が蝕まれ、偽の達成感と自分の知識への自信過剰が子供たちに植え付けられる。そしてそれは大人になってもずっと続く。(p102)

 

トムは、最終章「結論―専門家と民主主義」で専門知と民主主義社会のあるべき関係を提案している。それの実現には悲観的なのだがそれが実現するための条件として次を挙げている。

悲劇的なことだが、この問題の解決は、今のところ予測不可能な惨事にあるのではないかとわたしは思っている。戦争か経済的大惨事か(中略)。解決策は、現在アメリカやヨーロッパが向かいつつある、無知なデマゴーグによる政治下で現れるかもしれないし、ついに愛想をつかした官僚たちが投票を形式だけのものにしてみずから権力を握るテクノクラシー下で現れるかもしれない。(p282)

現在世界中を覆っているパンデミックがこの「予測不可能な惨事」にあたるのだろうか。この状況下で一般国民の専門家(この場合は感染症や医療の)への信頼はどうなったのか、政治と専門家の関係には変化があったのかは興味深いことだ。

日本では、首相や大臣が専門家の意見を容れないとして専門家会議と閣僚の関係について批判が集まることが多い。どちらも行動原則としては正しい。こうした政策決定者を選挙で選んだ国民に責任があるのだ。

それは昨今に限ったことではない。数年前の原発政策、公害への対応。戦争責任へもさかのぼることができる。

国民は民主主義を理解する必要がある。民主主義制度における専門家の役割についても理解する必要がある。専門家は知見を基に提案し、それを採用するのは政治家である。

ジョージ・W・ブッシュが大統領任期中にどのような失敗をおかしたとしても、アメリカ国民に対して政権の動きについて説明した際、自分が「決める人間」だと言ったのは正しかった。専門家にできることは提案することだけで、決めるのは選挙で選ばれた議員たちだ。(p261)

 

最後に本書から印象的なC・S・ルイスの文章を孫引きする。これは地獄の高官スクルーテイプの言葉である。

「民主主義という言葉を振りかざして、諸君は個人を面白いように操ることができます。
(中略)
小生がいう意味は、彼自身も自分が他人と同じだと思っていないということなのです。「おれだって、おまえとちっとも変わらないんだ」と言う人間は、同じだなんて思っていないのです。同じだと思っていれば、そんなことを口にする気にもならないでしょう。(中略)平等だという主張は、厳密に政治的な分野以外では、何らかの意味で劣っていると感じている人々の主張なのです。それが表明しているのはまさに、本人が受け入れることを拒んでいる、うずくような、チクチクした、身もだえするような劣等感なのです。それだから憤懣を抱くのです。そう、それだから彼は他人のうちのそうした点を腹にすえかね、それをおとしめ、消滅させてしまいたいと思うのです。(p277)