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「戦争は女の顔をしていない」スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

「戦争は女の顔をしていない」スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

大祖国戦争(第二次大戦におけるソ連とドイツの戦争)では100万人以上の女性兵士が従軍して闘ったという。アレクシエーヴィッチは1978年から2004年にかけてこれら元女性兵士等の500人から話を聞き、約200件の聞き書きをこの本に収めた。

この本以前には社会として明らかにしたがらず、また本人らとしても自ら語ることがなかったが、その体験は驚嘆すべき内容である。そしてそうであるならば、そうした話を聞き出したアレクシエーヴィッチの手法について、出版にこぎつけた苦労についても称賛すべきであろう。彼女は後年ノーベル文学賞を受賞している。

本書に描かれた悲惨さや崇高さについて、本書が持つドキュメンタリーとしての優れた価値については良い論文があるのでそちらに譲る。ここでは本書を読んで思ったことをつらつらと書いていきたい。

http://202.13.5.192/bitstream/10108/94318/1/lacs026016.pdf
https://www.ir.nihon-u.ac.jp/pdf/research/publication/02_37-1.pdf#page=41

日本あるいは他国においては戦時の女性の活躍はいわゆる銃後あるいは医療に限られていた。しかし、ソ連では実際に銃をとり、地雷処理をし、戦車に乗って砲を撃っていた。本書によるとその多くが熱狂的な祖国愛を動機としていたらしい。

こうした活躍したソ連の女性兵士は多く、その活躍ぶりも現在まで伝えられている。

https://jp.rbth.com/history/80406-nazism-dato-ni-daikoken-shita-soren-josei

同時期に同様の国家総動員で女子供も戦争遂行に染まった日本ではあったが、実際に兵士として採用された形跡はない。ソ連のように日本も広範囲に本土が蹂躙された場合、女性の公式な従軍はあり得たのか、本土の一部であった沖縄戦ではどうだったのかは興味深い。

しかし、全土がナチスドイツに占領されたフランスやポーランドでもそうした例は見られない。ソ連のそれは祖国防衛と共産主義という組み合わせの熱狂による特別なケースだったのか、それともそれはロシア人(女性)の気質にもとからあったものか。

本書では戦場が殺し殺されるという極限の状態ではあったが、そこにおいて女性がいかに大事にされたかが繰り返し語られている。ドイツ人女性に暴行を働きながらそれがロシア人女性兵士に知られることをたいへん恐れていたという。その分、敵であるドイツ兵には残虐に扱われたわけだが。

現代のシリア内戦において女性のクルド兵が、女性に殺されると聖戦と認められないとISISから恐れられていたことを思い出した。

正式な従軍とは別にパルチザンとして女性が多く活動していたことも語られる。一般の村人として破壊活動、連絡通信、物資輸送などに活動しやすいのが理由であるが、その分多くの苦悩や苦痛にもさらされることになる。特に子どもを連れての活動にはとてつもない緊張感があっただろう。それから家族を人質に取られる恐怖と、実際に取られてからの苦悩や苦痛は筆舌に尽くしがたい。

また、上記のように戦場では大事にされていた女性が戦後になめた辛酸も酷いものだった。戦争に行って兵隊であった女が平時の内地では偏見と憎しみにさらされた。そうしたのは兵隊に行かなかった女性はもちろんだが、戦場で共に闘った男さえもそうであった。

「サンダカン八番娼館」で家族のためを思って外地に渡ったからゆきさんが里帰りで偏見にさらされるエピソードがある。人間の醜い部分はどこでも同じなのか。

インタビューの後半ではスターリン批判が多い。これはグラスノスチ以降、そしてソ連崩壊後の時期だからなのだろうか。スターリンによる優秀な軍人の粛清や戦争指導の失敗を責める声もあるが、何よりも戦後捕虜からの生還した者への仕打ちが胸に迫る。

虜囚生活に耐え、拷問に耐え、苦労して国の家族の元へ帰還した者に限って秘密警察によって拘束され、ラーゲリへ追放される。そして彼らの名誉回復までには長い年月が必要であったという。戦争が終わり勝利に沸き立ってもその後の人生がこうも苦いものであっていいのか。

思えばナチスドイツも全体主義国家であったがソビエト・ロシアもそうであった。彼女たちが口を開いて語り始めるまでに数十年と国家転覆を経る必要があった(日本ももちろん全体主義国家だったわけだが)。それでも本書には体制や社会にその原因を還元されない、より普遍的な問題も見え隠れしている。

その事を考えつつアレクシエーヴィッチが後年祖国ベラルーシを離れることになった理由についても調べてみたい。

いずれにしても本書は戦争の実相を知るには必読の書であろう。ドキュメンタリーの手法としても、また民俗学の成果のひとつとしても大きなものである。

ところで、これがマンガになったものを読んだ(同タイトル、小梅けいと作)。戦場で勇敢に戦った女性兵士がいた(苦労はしたが)という単純化と間違った一般化を避け、本書の価値を損なわないためには作家は本書のエピソードすべて(200件)の章を描くべきであろう。

本書の価値はひとつひとつの声を積み重ね、さらに「話したい、知らせたい」という声が継続していることにこそ価値があるのだから。


「巨神計画」「巨神降臨」「巨神覚醒」シルヴァン・ヌーヴェル

「巨神計画」「巨神降臨」「巨神覚醒」シルヴァン・ヌーヴェル

太古に埋められた巨大ロボット。ようやくこれが制御可能になったとき、突然現れる新たなロボット群と激しい戦闘になる。ようやく異星人のロボットを撃退したとき、地球人のパイロットはロボットごと異世界へ運ばれることに。というのがこの3部作のあらすじ。

あらすじから想像するほどアニメとか映画っぽいストーリーではない。レポートの往復書簡形式なので緊迫感が持てない。

また、サイエンスの興奮がかけらほどもない。ロボットの材質は? なぜ瞬間移動できるの? ビーム兵器の技術は? など一切説明がない。

それに異世界の文化がものすごく退屈。そのすすんだ社会を維持するための文化・文明があってしかるべきなのにいまの地球と変わらない。星間社会のはずなのに国境を接しているがごとく。

アメージングのない小説だった。でも、そこがかえって映画になりやすいのかもしれない。


「流れる星は生きている」藤原てい

流れる星は生きている 藤原てい

引き上げ文学の中心的作品。ノンフィクションだと思われていることが多いが、藤原本人も言っているようにフィクションの部分も多く含んでいる。

引き上げとなったとき長男は6歳、次男は3歳、3女は生後1ヶ月であった。これは長春で夫と別れこうした3人の幼児を連れて、1年がかりで帰国するまでの記録である。

宣川の収容所での1年間の人間関係も厳しい。また、帰国に向けて出発し38度線を徒歩で超える際の地獄絵図。立ち止まれば死ぬと子どもを叱咤しながらの山と川越えは想像を絶する。米軍の収容所や帰国船に乗ってからのプライドを引き裂かれる日々も克明に記録してある。

結局、ひとりも子どもを亡くすことなく実家の長野・諏訪へ帰省を果たし、数カ月後に夫も帰国することになったのだが、そうならなかった引揚者も無数にいたのだろう。また、引き上げ途上で帰国を果たすことなく亡くなった者も。

それから、妻に苦労をかけてひとり帰国した夫の心情を考えるとまたやりきれないものがある。その夫の名は新田次郎である。

戦争の是非とは別に人間がどれだけの辛苦を経験できるのかを思う上で必須の一冊。とても有名な本であるだけに関連論文も多い。

「藤原てい『流れる星は生きている』『灰色の丘』をめぐる「引揚げ」の記憶」末益 智広
「戦後日本社会における「引揚げ文学」と家族愛」末益智広

それから引き上げ体験については平和祈念展示資料館に多くある。
労苦体験手記


「忘れられた日本人」宮本常一

忘れられた日本人 (岩波文庫) 宮本 常一

民俗学研究の名著。昭和初期に全国を歩き、地元の古老の話を聞き書きしたもの。

当時の高齢者なのでその若いときの話となると江戸後期から明治、大正時代にかけての話。まさに生きた近代の記録である。

現代の視点から見ると目のさめるような事実がある。例えば女の一人旅が珍しくなく大事にされたこと。大工など職人層が農家の次男三男を吸収するだけのニーズがあったこと。彼らは覚えた技能で各地を転々としていたらしい。

長野県のある村の寄り合いでのものごとの決め方なども興味深い。何かことがあると各村落の責任者が集まって、まさに話が尽きるまで話し合い全員合意で決定する方法が取られていた。

そこには関係のない話もあっただろうし、蒸し返しの議論もあっただろう。効率が優先される現代社会とは逆だが、それは現代の人々の心にも色濃く残っているのではないだろうか。そんなことを思った。

日本人の文化を考えるときに貴族や武家、僧侶など知的階級だけを見ていても仕方ない。そのことを教えてくれる本である。繰り返し読むべき一冊。

https://www.amazon.co.jp/dp/400331641X/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_Y31DEb7Q1X9QG

 


「ケーキの切れない非行少年たち」宮口幸治

「ケーキの切れない非行少年たち」宮口幸治

少年非行について認知機能という面にフォーカスし、考えるきっかけとなる一冊だった。

宮口は少年院勤務の経験のある臨床心理士。その非行少年ケアの提言は、そもそも非行少年(少女)たちは認知能力が低いので、その対策をしない限り更生は期待できないということ。

問題はそのことに気がついていない関係者が多く、紋切り型の対応を継続し、結果として再犯者を生み出すことになっているらしい。

しかし、彼がいう認知機能トレーニング「写す」「覚える」「見つける」「想像する」「数える」が、非行少年の問題を解決するというのはどうだろう。また、彼らの家庭環境、彼らの保護者の側にある問題にどう対応するべきかも聞きたかった。

https://www.amazon.co.jp/dp/4106108208/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_7cGjEbJ1SC1KZ


「チャーズ 下―中国革命戦をくぐり抜けた日本人少女」遠藤誉

「チャーズ 下―中国革命戦をくぐり抜けた日本人少女」遠藤誉

衝撃的な引き上げ体験の記録「チャーズ 出口なき大地」の続編。単行本の「続 失われた時を求めて」に天津編を加えたもの。これも想像に絶する苦悩に満ちた道程の記録。物理的な苦痛のみならず、精神を守るためか感覚を閉ざして過ごした幼少期の精神史として壮絶。

遠藤は今日、祖国で物理学研究者として成功しても、なお記憶に呼び出すことのできないことを抱えたまま今日を生きているという。そして、それは予想もしないことをきっかけに本人を現実から引き離し、ガラス玉に閉じ込める。

それだけ恐ろしい記憶だったということか。しかし、それでも過去を明らかにしなければならないという苦しさもある。今日ではPTSDという言葉もあるが、それよりも魂のさまよいの記録として読む者を慄然とさせる。

https://www.amazon.co.jp/dp/4167521024/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_ISFjEb4FC31VM


「チャーズ―出口なき大地」遠藤誉

「チャーズ―出口なき大地」遠藤誉

「魂の脱植民地化とは何か」深尾葉子で取り上げられており、興味をもって読んでみた。引き揚げの体験談や書籍は数多くあれど、これは想像を絶する凝縮された体験。

遠藤の家族は戦前長春に暮らしていた。彼女の父は薬品製造販売(ギフトール)で成功しており、その社会的意義も中国社会から認められていた。それもあって戦後も現地に留まっていたのだが、国民党が支配する地域を八路軍(共産党軍)が包囲するにつれて街は深刻な食糧難におちいる。

家族は幼い弟を栄養不足で死なせたのをきっかけに長春を出て、中国人の知人を頼ることにしたのだが、街の周辺にこの世の地獄があることを知らなかった。

国民党側のゲートの外側にさらに八路軍のゲートがあったのだ。そしてそのゲートはめったに開かれることがない。よって長春の街を出た者らはその中間地帯に長期間にわたって留め置かれることになる。食料も飲水もない地帯に。

そのチャーズに留められた者は数十万人。生き延びるための略奪と屍体の山の上で死を待つだけの毎日であったという。そこには日本人も中国人もない。国民党と共産党の闘争という中国建国の悲惨な一面である。

遠藤は物理学の研究者らしく、生存者の記憶や事実関係の検証からチャーズの状況を再現し、歴史的背景による考察も行っている。このことを伝える記録が現地にもほとんどないということから、本書は貴重な記録であろう。

https://www.amazon.co.jp/dp/4643737808/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_U4OgEbDQ1PHRD


「日本人のための憲法原論」小室直樹

「日本人のための憲法原論」小室直樹

日本国憲法のみならず、民主主義と資本主義の歴史的成立について親しみのある語り口で伝える良書。

そもそも人権という概念は神のもとでの平等という意識から始まり、それにはプロテスタンティズムの普及が必須であった。そこまでは分かるのだが、日本にそれを普及させるために天皇を中心の国にしなければならなかったという理論展開については疑問がある。日本人の平等意識は明治時代になってから急速に生じたのだろうか。

また、資本主義は古来から中国にもあったが、「近代」資本主義は社会の参加者ひとりひとりが心から勤労する気持ちになるというエートスの転換を待たなければならなかったと小室は言う。

その点は納得できるが日本人の場合はどうだったのだろう。日本人の勤勉さを理由付けるのに古来から農耕社会であったことを指摘するのが一般的である。

戦前のみならず戦後の急成長という近代資本主義で成功経験のある日本にはどのようなエートスの転換があったのだろうか。私は日本人にはそうした勤労観がもとからあったように思う。

ところで、ヒトラーによる経済センスが優れており、ケインズ以前に公共投資によってドイツ経済を回復させたことを本書で初めて知った。小室のケインズの有効需要と波及効果(乗数理論)についての説明はわかりやすかった。

しかし、1990年代の政治・経済低迷の原因を官僚にかぶせるところが当時の限界か。今日の自民党政治の無能さについて、あるいは各国に共通してある格差と分断についてどう言うのか小室に聞いてみたい。

https://www.amazon.co.jp/dp/4797671459/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_WlOgEbVD53P4Y

日本人の階層意識については宮本常一の「忘れられた日本人」を併せて読むと興味深い。


「生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却」安冨歩

「生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却」安冨歩

安冨をある分野の専門家とすることに意味はない。それで思想家と呼ぶことにしているのだが、本書はその思想家としての安冨の経済学への批判と経済学があるべき方向についての指針である。

彼の近・現代経済学への批判は徹底している。そもそも市場経済理論は「相対性理論の否定」「熱力学第二法則の否定」「因果律の否定」によって成り立っているのだという。

需要と供給の関係による価格決定が物理法則を無視することで成り立っている、という指摘は言われてみれば確かにそうだと思う。しかしもっと慄然とするのは、古今東西の経済学がそのことに目をつぶって(本当はわかっているのに)論を構築し、そのことで市場運営や国家運営に影響を及ぼしているということだ。

また、市場経済の基本的前提に「選択の自由」があるが、これも実行不可能であるとしている。これについては、人間の多くの選択はその都度行われているのではなく、あらかじめ決定されているというフィンガレットの論が提示される。

他にも、プロテスタント的世界観とそれに対置されるべき老荘の「道」の人生観、ポラニーの「創発」という認知論、手続的計算と創発的計算、フィードバックによる人間関係論など興味深い議論が本書には盛りだくさんである。

その中でも特に西欧主導で始まった「死への指向性を持った経済学=ネクロエコノミー」から「生への指向性のある経済学=ビオエコノミー」への転換を提唱するくだりが最も興味深い。

しかし、本書ではこの部分については方向性を提示するにとどまっている。展開を期待しているのだが安冨あるいはその同調者による展開の動きはいまのところ見当たらない。そのことが残念である。

組織論とマネジメントについて特に興味がある記述を挙げてみる。

マーケティングとは何かを売りつけるための手管ではない。それでは「販売」である。マーケティングとは、その組織が外部から何を求められているのかを察知し、それに組織の作動を適用させることである。この適応のために、自分自身を常に変えることが、イノベーションの本質である。もしマーケティングとイノベーションとが、完全にできるのであれば、販売は必要がなくなる。

これがドラッカーのマネジメント論の根幹であるが、こも方策のすべては、ハラスメントを抑制し、コミュニケーションを円滑にして、人々の創発性を発揮せしめることを目指している。

(中略)

そうしてはじめて仕事は円滑に行われ、全体主義への逃避を防ぐことが可能となるのである。(156ページ)

安冨の参加している「魂の脱植民地化」研究(「魂の脱植民地化とは何か(深尾葉子)」)でも感じたが、彼らは自分の体験で論ずることをよくする。この議論をしている者はどんな人間なのかが重要という考えは、これまでの学問にはなかった。これは現代の研究者、特に社会学、心理学、文化人類学における新しい兆しなのかもしれない。

これに関する記述を探してみたが、探した限り明確なものは見つからなかった。以下の引用で参考とする。

提唱者のポラニーが指摘したように、創発とは、分析不可能な暗黙の次元に属する過程である。

(中略)

なすべきことは、創発を分析することではなく、創発を信じた上で、具体的な創発の過程に「住み込み」、感じることで理解することである。そしてまた、創発を阻害するものについて分析し、それを取り除く道を探ることである。(109ページ)

ところで「日本人のための憲法原論(小室直樹)」にも近代経済学原理へのピューリタニズムの影響について述べている箇所があることはメモしておく。

https://www.amazon.co.jp/dp/4140911077/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_364XDbERVC1B3


「魂の脱植民地化とは何か」深尾葉子

「魂の脱植民地化とは何か」深尾葉子

さいきん集中的に読んでいる安冨歩の参加している叢書「魂の脱植民地化」の最初の一冊。

さまざまな「魂の植民地化」のケースを、ゼミ学生のレポートや「ハウルの動く城」、福島からの自主避難者の声などをケースとして取り上げている。「蓋」と「自己」そして「憑依」がそれを理解するためのキーワードである。

しかし、もっとも興味深いのは深尾本人の人生を取り上げているということ。

中共支持者の両親を持ち、日本における文革体験に満ちた幼少時代の自分をあからさまにケースとして取り上げる。また、長じてからは中国研究者として彼の地へ渡り、様々なフィールドワークを行ったことのみならず、自分の恋愛体験や結婚生活、母親との良くない関係についても語っている。

それはこれまでの社会学や心理学の論文にはなかったアプローチであることに素直に感心した。

本書にもどこかに書いてあったが、事象に巻き込まれていないと真に理解できない(記憶から再現)というのが「魂の脱植民地化」のアプローチである。その精神は一貫している。

表面だけ読めばよくある自己啓発本のようだが、本書は正当な学問的手法によって書かれた論文である。「魂の脱植民地化」とは何かということについては原典に当たるべきであるという、それが理由でもある。

https://www.amazon.co.jp/dp/4862280609/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_s24XDb4KTWZX6