『ペイン・キラー アメリカ全土を中毒の渦に突き落とす、悪魔の処方薬』バリー・マイヤー

『ペイン・キラー アメリカ全土を中毒の渦に突き落とす、悪魔の処方薬』バリー・マイヤー

こちらも『ペイン・キラー/死に至る薬』を観て読むことにした一冊。『DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機』より出版時期は早いが取り上げている範囲はこちらの方が広範。

これだけ巨大な社会事件となると登場人物も多種多様である。

巨大製薬企業の役員はもちろん、規制当局(FDA)、取締機関(DAE)、製薬会社の営業員、非道徳的な医者、薬剤師、そして患者、麻薬依存者とその家族。事態に対応する医師、活動家。告発に動く検事と思惑で動く司法長官。そしてサックラー家。企業と名門家を金とコネで守るためにうごめく弁護士たち。それにこの事件で忘れてはならないのは米国の保険会社。彼らもまたこの悲劇に大きな役割を担ったのである。

そうしたプレーヤーが活動する舞台には企業の役員室、営業戦略とマーケティング戦略を立案する現場、企業と司法当局のやりとり、判決を下す裁判所がある。それから地方クリニックの診察室や薬局、学校とそれぞれの家庭、街角。さらにはリハビリ施設や支援団体の現場も。

事件の流れは、まずオキシコンチンの開発、それに続くFDAによる販売認可、その製品のラベルの文言とマーケティング手法の認可がある。そして製造販売の開始。それが平和だった地方都市に多くの不幸をはびこらせ、荒廃させ、多くの若者を死なせ、家族の苦悩をもたらした。

そうした事件の一連の流れに見られるのは、FDA、DAEら行政機関の機能不全だ。もし、オクシコンチンが認可されていなければ。もし、そのマーケティング手法が禁止されていればこうした広範囲な薬害は発生しなかっただろう。そして多くの麻薬依存者も過剰摂取による死者も発生しなかったのだ。

ようやく司法の裁きを下す時になっても、「司法取引」という極めて不十分な罰則しか適用できないという結果は多くの被害者を落胆させた。結局、パデュー・ファーマ社の役員もサックラー家も逃げ切ったということだ。

本書で指摘しているが、もし公判ということになれば少なくとも同社のオクシコンチン製造と販売にまつわる膨大な資料が証拠として公開されただろう。「司法取引」によってその証拠が闇に葬られた。そのことで、米国社会はこうしたことが二度と起こらないようにするにはどうしたらいいのか、それを学ぶ貴重な機会が失われてしまった。

このオピオイド事件が発生から23年経ち、パデュー・ファーマ社が破産宣告したことで事件は終息したのかというとまったくそうではない。さらに強い麻薬の蔓延を招いているのが今日の状況である。

米国社会もそうであるが日本でもこうした事件について忘却することは許されないだろう。本書はこの事件について広範にカバーする良書である。


『ザ・ファーマシスト: オピオイド危機の真相に迫る』Netflix

『ザ・ファーマシスト: オピオイド危機の真相に迫る』Netflix

全米に悲劇を撒き散らしたオピオイド事件に関するドキュメンタリーシリーズ。『ペインキラー』は事実に基づくドラマだがこちらはドキュメンタリー。

主人公は薬剤師。息子がオキシコンチン中毒になり麻薬ディーラーに銃撃されて死亡。導入はその銃撃事件の真相究明が主要なテーマである。

その後彼はこの事件の背景に広範な薬害事件があることに気づき、そしてそれに取り憑かれるようになる。

やがて自分の住むニューオリンズ地域で無差別に処方箋を配布する医師がいることに気づき、そして、彼は一人の薬剤師としてその医師を告発する活動にのめり込んでいくというドキュメンタリー。

その麻薬中毒者を蔓延させ拡張していくシステムに慄然とする。中毒者はオクシコンチン欲しさに処方箋を出してくれる医師を探し、処方箋を持って薬局に行く。なので処方箋そのものが中毒者にとっては価値のあるものとなり取引の対象にもなり略奪の対象にもなる。。

処方箋を気軽に出してくれる医師は彼らにとって貴重。一方、モラルのない医師にとってもオクシコンチンの大量処方は手っ取り早く患者を集める手法でもある。

さらに製薬会社の販売員が医師にオクシコンチンを処方するための動機を提供し、麻薬を処方することへの歯止めを営業トークによって排除していく。

そもそもその中毒者は本来普通の市民であって、信頼していた医師が痛み止めとして処方した薬によって麻薬中毒となってしまった例が多いことも忘れてはならない。

それにしても米国人の薬剤使用へのハードルの低さや、依頼心の強さは不思議に思えるほどだ。

富裕層の高校生ではバッグに入った錠剤を回し飲みするパーティが一般的であり、そこでためらうことは「男らしくない」「勇気がない」と思われることになるらしい。

米国の若者における薬品への嗜好性というのも興味深い社会的テーマではないか。

The Pharmacist | Official Trailer | Netflix

『ペイン・キラー/死に至る薬』Netflix

『ペイン・キラー/死に至る薬』Netflix

20世紀終わりから今日にかけて米国に死と荒廃をもたらしたオピオイド薬害事件。その事件を当事者双方(製造販売した製薬会社と、中毒によって人生が破綻してしまった市民)から描いたドラマシリーズ。

製薬会社の倫理観の不在、規制当局の機能不全、破滅を促進する保険システムが一方にあり、麻薬には縁のなかった地方都市の中間層・富裕層が医師の処方した薬によって中毒患者となっていく過程が描かれる。

この薬『オキシコンチン』の認可と広告内容の認可の過程には驚くばかりである。私にはこれについての知識がないが、日本では起こり得ないシステムになっているのではないか。そうであってほしい。

真面目な自動車修理工場の経営者が中毒になっていく様子はまさに救いようがない。当事者もその周囲も不幸にするのが麻薬だとは言われるが、彼の場合は信頼していた医師の処方した薬が原因なのだ。

それに対して『オキシコンチン』製造元のパデューファーマ社の経営陣はお気楽な凡人として描かれる。「その機会があってたくさんのお金を稼ぐことの何が良くないのか」という飄々とした表情をしている。

その中でパデュー社の社長であるリチャードは小心者ながら憎めない人物として描かれている。叔父の幽霊と二人三脚で大企業を取り回していく様は軽妙でさえある。演じるマシュー・ブレデリックは良いアクセントになっている。

本作は事実に基づいたフィクションであるが、これだけ有名な事件であればドラマ化は真面目一辺倒という訳にはいかなかったのであろう。

それはそれとして、事件の一応の決着としての裁判の判決と、この広範な事件がまだ継続していることに慄然とした。

『ペイン・キラー/死に至る薬』予告編 – Netflix

「この世界が消えたあとの 科学文明のつくりかた」ルイス ダートネル

「この世界が消えたあとの 科学文明のつくりかた」ルイス ダートネル

何らかの原因で世界が破滅してから生き残った人類が科学文明を取り戻すためのノウハウ集。

農業、紡績、製鉄、発電、印刷、電気通信などの技術とそれを支える科学の成分分解が興味深い。しかし、破滅後にも消えない問題としてメルトダウンした原発の廃炉について触れないのが納得いかない。

また、それらの科学と技術の展開を実現するための社会体制について章を割いてほしかった。プロテスタント思想と人権、民主制度は急速な科学技術発展の基礎となるものではないか。

それから大災害直後の残された資源について、スーパーにある缶詰や乾電池について触れるのなら膨大にあるであろう人間の屍体の活用方法についても検討するべきではなかったか。


『当事者は嘘をつく』小松原織香

『当事者は嘘をつく』小松原織香

レイプ被害の当事者であり国際政治、特に修復的司法の研究者でもある著者が自分の体験とそれ以降の精神のさまよいを書いたエッセイ。論文ではない。全編を通じて「これは本心なのだろうか」との疑問が離れなかった。その意味でタイトルがあらかじめすべてを語っているとしたらタイトルは秀逸である。しかし「この本は出版しなければならなかったものなのだろうか。他者がこの本を読む意味はあるのだろうか」との疑問も生じた。


『消えた16mmフィルム』Netflix

『消えた16mmフィルム』Netflix

シンガポールの若者が映画を作りたいという夢を実現。しかしフィルムとともに消えてしまった監督。例えフィルムがなくなっても制作に関わった者に残る映画の記憶。制作に関わった者にのみわかる映画の夢というドキュメンタリー。最高評価。

Shirkers | Official Trailer [HD] | Netflix

映画『瀑布』Netflix

映画『瀑布』Netflix

パンデミック下で精神を病んで行く母、そしてその娘を描いた映画。この上なく沈鬱だが台湾映画の深みと実力をいかんなく発揮した傑作である。

カメラのほとんどが母娘が暮らす台北の高級マンションの室内。しかもパンデミックでマスク姿が多い。見てて息が詰まる。

それに母は離婚した夫にこだわりを持っており、勤務先の外資系企業からリストラされ、あげくは鬱病を発症。思春期の娘もやっかいな性格。

ということで前半は陰々滅々で途中で観るのを止める人も多いのではないか。

しかし、全編を通じて人生の機微を画面いっぱいに展開してくれるところがこの監督の素晴らしいところ。前作の「ひとつの太陽」でもそうだった。

外壁工事の覆いが取り去られた後の室内の光。同じ部屋を撮ってるのにこの表現。

映画の4大要素、「演技、脚本、カメラ、音声」がこの映画ではどれも素晴らしい。まさに台湾映画の実力をいかんなく発揮している。

同調意識に寄り掛かる日本映画、過剰に振れがちな韓国映画とも違う。深みがあり観るもの感性を信頼するのが台湾映画。この映画ではそれが充分に堪能できる。

また、最後のエピソードがともすれば付け足しのように見えるが、それでも納得感と充足感を持って終わることが出来るのが作品の力。

台湾映画はもっと世界的に評価されてもいいと再認識した。

《瀑布》| 正式預告 | Netflix

映画『17歳の瞳に映る世界』

映画『17歳の瞳に映る世界』

フィラデルフィアの少女が堕胎のため、従姉妹とふたりでニューヨークへ行くという物語。

期待せぬ妊娠、そして堕胎について残酷ではあるが極めて誠実な映画である。この映画が必要な人にしっかりと届けばいいのにと思った。

映画ではこの少女の妊娠の原因(相手の男性)については一切説明されない。そして、(そんなことは)する必要もないというメッセージが伝わってくる。

地元の病院でもそれなりに配慮はある(しかし州法でこれは禁止)。なので(親には黙って)バスを乗り継いで出かけるニューヨークの病院でも親切らしき人はいて、世話を焼いてくれそうな人もいる。

しかし、少女たちはことごとくこれを拒絶する。

「泊まるとこあるの。ニューヨークのホテルは高いわよ。よければボランティアを紹介するけど」
「自分たちで何とかします」

すべての大人社会、そして男に対する拒絶が根本的・徹底的にある。そうした感覚がビンビンと伝わってくるし、それは物語の最後まで一貫している。

原題が「Never Rarely Sometimes Always」。「全然ない、極めてまれに、時々、いつも」。これはカウンセラーが彼女に聞く質問の答えで、彼女はこのどれかで答えなくてはならない。

「セックスを誰かに強制されたことはある?」
「相手がコンドームの使用を拒否したことはある?」
等々。

これはその原因がレイプだった場合のセカンドレイプを避けるため。解答を限定するという配慮だという。

このシーンを見て、これはそのプロセスを体験する可能性のある者(すべての女性?)にとって極めて実質的かつ実際的な資料となるのではないだろうか。

限られた時間で当事者が必要な意思確認を冷静にするための、現場からの体験に基づいたプロセス。作家や活動家や評論家や学者が空想したことでなく、実際の現場からの効率的な手法。

だからこそ悲惨な現実の「現場」からのこの物語が必要な人々に確実に届けばいいのにと思うのだ。この作家は誠実な人だと思う。

米最高裁で堕胎に関する権利判決が揺れている昨今である。女性の体については女性自身が決めるべきであるとあらためて感じた。

映画『17歳の瞳に映る世界』予告編

映画『行き止まりの世界に生まれて』

映画『行き止まりの世界に生まれて』

イリノイ州・ロックフォードに生まれた3人のスケボ少年。その過去と現在を追ったドキュメンタリー映画。

そのひとりが本作の監督だからこそ、この希望のない社会でスケボを通じて結びついた少年たちの内面をストレートに聞くことができて、しかも素直な言葉が帰って来たのだろう。

大人がカメラを持ってきてもこんな言葉や表情は捉えられない。そこに本作の価値があるのだと思う。

日本でも最近では自分の家族や兄弟など、密接な関係にカメラを持ち込むドキュメンタリーは多くなった。それは濃密すぎてときに辟易とすることも多いが、見る者に澱のように何かが溜まるのは確かだろう。

これが21世紀のドキュメンタリーの形なのだ。これを見る度に旧世代作家の創り込みが見苦しいものに見えてくる。

一方、カメラの高解像度化がこうした心象的に濃密な映像に向かうとは誰も思っていなかったのではないだろうか。これらは作品と言うよりは心象スケッチあるいは私小説とも呼びたくなるものではある。

『行き止まりの世界に生まれて』予告編

映画『アメリカン・ユートピア』デイヴィッド・バーン

映画『アメリカン・ユートピア』デイヴィッド・バーン

『ストップ・メイキング・センス』が1984年だったから35年ぶりのデヴィッド・バーンのライブ映画。監督はスパイク・リー。

『ストップ…』が素晴らしくってDVDで何度も見たが今ではYouTubeで全編いつでも見られる状態になった。あの地明かりの素のステージから曲ごとにミュージシャンや楽器が出てきて出来上がっていくという構成にすっかりやられた。

こうしたコンテンポラリーな演劇的ライブはこの新しいライブでも追求していた。チェーンで囲まれたほぼ四角いステージはミュージシャンが出入り自由で、時にはスクリーンになったりシンプルなライティングで影をキャスティングしたり。

ところで『20センチュリー・ウーマン』ではトーキングヘッド好きを公言した少年がハードロックファンにいじめられるシーンがあったが、あの時代にはロックの都会派 vs. 田舎派があったのだなあと思った。

それにしてもデヴィッド・バーンのトークは知的で洗練されていた。ふつうのバンドが曲の合間にするのとはずいぶん違う。

テーマも選挙人登録を促すものだったりと社会問題のあるところが日本のとは違う。BLM運動の一環とも言える曲もあったし。

こうした知的なライブはなかなか体験できるものではない。

5月28日(金)公開!『アメリカン・ユートピア』予告編 70秒