ドラマ『新聞記者』Netflix

『新聞記者』Netflix

森友学園、加計学園、桜を見る会、イラク日報、アベノミクス、アベノマスク、オリンピック、コロナ対策と安倍政権の疑惑は数多くあり、ありすぎて世間からは忘れられたものもあるかもしれない。

それでもこうして映像にして、繰り返し疑惑を疑惑として蘇らせ、自ら命を断つという者すらいた、という記憶を新たにするのは重要なことだ思う。このドラマの重厚な映像と役者の気持ちの入った演技によって、あらためて安倍政権に対する苛立ちを思い出す人は多いのではないか。

外資系制作会社による本作品では、米倉涼子、寺島しのぶ、綾野剛らの暗闇を凝視する演技が素晴らしかった。また、脇を固める吉岡秀隆、田口トモロヲの演技も驚くくらい重厚だった。それは日本のテレビドラマや映画での彼らの演技では見られないものである。

しかし、大団円を予感させるドラマでのクライマックスと現実のギャップ。それにはむしろ慄然とさせられた。エンドロールのテロップで、故・赤木俊夫さんと妻・雅子さんのこと、国が1億円支払って裁判を強制終了させたことを伝えても良かったのではないか。

また、官僚としての良心に訴えて気持ちを動かすような演出があるが、これはシン・ゴジラにつながる浅薄なものだと私は思う。いわく「官僚は本当は良心と責任感がある人々なのだが、組織や政治がそれを許さないのだ」というもの。

私はむしろ官僚の限りない空虚さを強調する方が、この社会の真の恐ろしさを表現できるように思う。「本来であれば官僚とは公僕としての良心があり、国民に仕える者としての責任感がある者」と予感させながら、「実際には内部にあるのはただ限りない空漠さであり、空虚さである。それだけが彼らの内部には広がっていた」というようなプロットはどうだろう。

それでこそ現政権を維持させ、この社会や政治のあり方を是とする国民意識の闇をも表現できたのではないかと思う。

いずれにしてもこうして安倍政権の疑惑が、定番として繰り返し語り継がれるようになればいいと思う。例えば日本人の大好きな忠臣蔵のように、毎年年末になると安倍疑惑がドラマや絵本になって繰り返し語り継がれるように定着すればいいのにと心から思う。

『新聞記者』 予告編 – Netflix

『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代』武井麻子

『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代』武井麻子

看護、介護に限らず接客業など人を相手にし、自分と相手の感情を制御する必要のある仕事を「感情労働」としてこれにまつわるあれこれを綴ったエッセイ。

看護師や介護者の評価項目として「TLC(テンダー・ラビング・ケア)」というのがあったことが衝撃的。本書は2006年の刊行。現代では「お客様は神様」という考え方が批判的に取り上げられるようになったので時代の移り変わりを感じる。

介護者のメンタリティを中心に現場に即して取り上げたら、本書はもっと興味深いものになったのにと感じた。


『病んだ家族、散乱した室内―援助者にとっての不全感と困惑について』春日武彦

『病んだ家族、散乱した室内―援助者にとっての不全感と困惑について』春日武彦

タイトルから想像されるような家族ホラーや凄惨なドキュメンタリーではない。地域で活動する精神科医のノウハウが詰まった、きわめて実際的な本である。

認知症、うつ病をはじめとしてゴミ屋敷の住人、異常行動で近所から保健所へ通報されるような人へどのように対応したらいいのか、経験に基づいた知識、また支援者としての限度・限界への知見が詰まっている。そこには理想論やあいまいな言葉でのごまかしがない。また、筆者はそのような支援者に対し痛烈な批判をしている。

さて、筆者が本書で何度も指摘するのは、当事者よりも彼らに最も近い援助者であるべき家族のことである。つまり、家族の状況改善は最も有効な当事者への治療であるが、それと同時に当事者の状況の原因でもあるということだ。

医者が当事者を訪れると、その家族の精神異常が疑われる場合が少なくないという。

いわく、母の介護を人生の目的にしている息子。母の徘徊に困り果てて拘束して仕事に出かけて何とも思わない息子。何年も引きこもっている娘に困っていることはと尋ねると「フェルトペンと画用紙代がかさむのが悩み」という両親など。

筆者は当事者を入院させるなどして家族と引き離すこと、また、家族にヘルパーや保健師など外部の空気を入れることが劇的な効果をあげることを指摘している。

また、ノウハウのひとつとしてウソをついて当事者と会話することの効果も指摘している。いわく、ゴミ収集癖のある人に路上で話しかけるとき医者と言わない、玄関で区役所の職員を装って入れてもらうなどである。

精神病患者というものは本人にその自覚がなく、医者に会いに行くまでが大きなハードルである。ところがその周辺(近所の住民やケア担当職員)からは早急な診断を求められる。よってこれは面談を実現させるための仕方のないノウハウであろう。

ところが、こうした実際的なノウハウとインフォームドコンセントが重視される今日の世情はおそらく対立するのだろう。うがってみれば本書が今日では絶版となって入手困難となっている理由はそこにあるのではないかと推測される。

本書には地域で活動する精神科医としての腹をくくった覚悟が散見される。同時に、支援者として最重視するべきことは知識とか経験を仲間同士で共有し、意識を揃えて当事者に向かうことだとも指摘している。私には経験も知識もない分野ではあるが納得の行く意見である。

本書は地域で精神病が疑われる人々へのケアに従事する人々には極めて有用なものであろう。

「こわいもの知らず」とプロは違う

こわい思いをすることについて、それを差別だとか共感が不足しているなどと非難することは誰にもできない。場数を踏まなければ、そつなく立ち回ることはできない。合点のいかないシチュエーションにおいてこわいと思うことは、ある意味で世間一般の感覚そのものであり、それを失ってしまっては相手に適切なアドバイスもできまい。無鉄砲であったりこわいもの知らずであることとプロであることは別問題である。

患者を前にしてこわいと感じたとしても、それを恥じたり道徳的に問題ありなどと自責的になる必要はない。むしろ職場で「なぜこわいと感じたのか」を討議の材料にすべきであり、案外ベテランでも似たようなことについて迷っていたり揺れていたりするものである。担当医に疑問をぶつけてみるのもよい(ちゃんと答えてくれない不親切な医者もけっこういるが)。

もっと誠実に振る舞えとか、ミもフタもないことを言うような人間がいたとしたら(ケース検討会で、具体的アドバイスを求められた際に「もっとフトコロに飛び込みなさい」と無意味な助言をして保健婦を煙に巻いていた医者を知っているが、わたしはこういった抽象的かつ空疎な発言は犯罪に近いと思っている)、それは現場での経験がないくせに知ったかぶりをしている「尊大な臆病者」と思って間違いない。率直な気持ちを押し殺してしまっては、納得のいく援助活動など不可能となってしまうだろう。(本書143ページ)

事態はまことに厄介である。そう簡単に解決がつくものではない。悔しいけれども、どうにも手の出しようがない場合はいくらでもあるだろう。わたしなりの最良のアドバイスとは「自分だけで問題を抱え込むな」「自分だけで悩むな」ということであり、すぐに解決がつくとは限らなくともせめてチャンス到来に際してそれを生かしきれる体制を整えておくことであろう。そして援助者に求められる能力のひとつは「億劫がらずに、必要な人たちに連絡をつける才覚」ではないかと思うのである。(本書163ページ)


『リハビリの夜』熊谷晋一郎

『リハビリの夜』熊谷晋一郎

脳性まひ当事者による、全身障害であることの身体的、心理的あり様、それからリハビリ、自立生活について論じた書。

脳性まひ者(障害者)である事と「敗北の官能」を関連付けたこと、障害者の性的感覚を赤裸々に語るところが従来の医療者、支援者視点の書にはなかった。これは画期的な障害者論である。

一方そういった「障害者であることの官能」を寄り添わせながら、本書は「まなざし/まなざされる関係」という障害者が支援の現場で置かれる状況を詳細に論じていく。

筆者はやがて、健常者による規範的な動きを目標にしたリハビリは問題があると結論づけ、大学進学を機に自立生活を開始することになる。

そして、自立生活、研修医としての生活を経て「身体内協応構造/新体外協応構造」という概念を得る。それは排泄の失敗という経験と、施設の改善による世界との馴れ合い、あるいは研修医として医療の現場における同僚との共同作業の体験によって得たものである。

つまり、これは当事者が人生を通じて障害者としての身体と心理を分析し論理化したという、障害者研究としては類を見ないものではないだろうか。

さて、本書の終盤では自立生活を送る障害者が二次障害を意識する例、そして衰えについて触れている。これもまた現在を生きる当事者の心理として貴重な報告である。

特に自立生活を送る重度障害者の二次障害について、自らの反省をも表明する以下の部分が私には最も興味深かった。

降りた当事者たちは、生きる困難の原因を、自身の身体病理ではなく、社会の中に見出し、自立生活運動を展開してきた。その理念に、私は深くコミットしているし、本書もそのような考え方に貫かれている。

「問題は多数派の身体を前提にしている社会の側にあるのに、自己身体を問題化してたまるか」という発想が、私たちの中には確固としてあるのだ。そして、リハビリでの挫折を通してはぐくまれた医療的なまなざしに対する根深い不信感もあいまって、「二次障害への対応」という名目での医療的な介入をほとんど反射的に退けてしまうのである。

このように「降りた当事者」たちも、まなざしを自己身体ではなく社会の側に向けようと意識するまり、自らの身体を省みることを無意識に忌避してしまう可能性がある。そういった自己身体への無関心によって知らず知らずのうちに、身体の声を拾い損ねて、結果的に酷使してしまうという状況に陥るのだ。

こうした二つのパターンによって、脳性まひの身体は、専門家だけではなく当事者からも省みられることなく、酷使されることになる。自己身体への承認から出発した当事者運動が、いつのまにか自己身体の抑圧へと向かい、そもそも運動の羅針盤だった身体の悲鳴がかき消されていくという矛盾。支配者が専門家から当事者に入れ替わっただけで、相変わらず脳性まひの身体は、暴力を振るわれ続けることになるかもしれないという疑念。(本書224ページ)

 


映画『Goodnight & Goodbye』呉耀東(ウー・ヤオドン)

映画『Goodnight & Goodbye』呉耀東(ウー・ヤオドン)

前作『ハイウェイで泳ぐ』から20年後に同じ被写体に会いに行くというドキュメンタリー。撮影以来、良好な関係でなかったことから不安に満ちた旅であったが、結局そこに自分のエゴイズムをみるということになったという話。こちらも極めて個人的な作品で知人にしか評価されないものだろう。ところで、登場者が山形国際ドキュメンタリー映画祭を懐かしむ場面があり、このイベントがいかに世界中で敬愛されているかということが感じられた。

https://docs.tfi.org.tw/jp/salt/film_04.html


映画『ハイウェイで泳ぐ Swimming on the Highway』呉耀東(ウー・ヤオドン)

映画『ハイウェイで泳ぐ Swimming on the Highway』呉耀東(ウー・ヤオドン)

1999年、台湾で制作されたドキュメンタリー映画。破滅的な青年と彼を追う映画作家のやりとりだけが延々と映し出される。被写体の青年にも映画製作者の気持ちにも入れ込むことができず、あまりにも個人的な映画。個人から普遍へといつのまにか繋がってしまうのが優れたドキュメンタリーと思うのだが、これはそれ以前にそれぞれが自己憐憫から抜け出ていない。ここに時代や社会背景を読み取るべきではないと思う。1999年、山形国際ドキュメンタリー映画祭小川紳介賞受賞作品。

https://docs.tfi.org.tw/jp/salt/film_03.html

 


『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎

『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎

ちゃんと読めなかった。西欧の哲学・思想を語るときには、もはや思想を伝えるための言語を構築することから始めないとならないのではないか。無批判に従来の思想書にある言説で自分の考えを披露して満足しているようではこの分野が衰退するするのは無理はない。すでに衰退しているので復活もとうぜん無い。


『どもる体』伊藤亜紗

『どもる体』伊藤亜紗

吃音に関する身体的および精神的分析。実例は多くはない。サンプルも適切とは思えなかった。筆者はアート分野の方らしく、ケースの解釈をその方面へ強引に持っていくことが多かった。吃音当事者が自分の問題として読むのであれば、もっと適切なものがあるのではないだろうか。


『認知症の私から見える社会』丹野智文

『認知症の私から見える社会』丹野智文

筆者は29歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断された当事者。現在も自動車販売会社で事務職のポジションで勤務している。

本書で繰り返し伝えようとしているのは、認知症当事者に決めさせろということ。

いわく、認知症と診断されたとたんに財布も自動車も取り上げられ家族が保護する対象になってしまう。しかし、当事者は昨日までと違う人間ではなく自分の人生を自分で決めていきたいと思っているのだ。

以下、かなり長いが大変貴重な見識だと思うので引用する。

認知症カフェという場所があります。認知症カフェは、ヨーロッパで始まったスタイルを取り入れて、認知症の人と家族を支援することを目的に、2012年から国の認知症施策の一つとして普及が始まった場所です。

認知症の人や家族、地域の人たちが気軽に集い、悩みを共有し合いながら、専門職に相談もできる場所になっています。認知症カフェはカフェという自由な雰囲気の中で、支える人と支えられる人という隔たりをなくして、地域の人たちが自然と集まれる場所だと言われています。

しかし実際には、必ずしもそうした場所にはなっていません。

(中略)

このような、家族の相談が主体の認知症カフェに、当事者が一緒に参加しても、そこは家族がつらさを分かち合う場であり、家族中心で話が進められるから、当事者の居場所はありません。

なぜ、このようなことを例にしたかというと、認知症カフェの話をしても「当事者が来ない」と言っている主催者が多いからです。

「認知症カフェに当事者が行かない理由」、それはカフェに行っても面白くないからです。(本書40ページ)

家族は、隣に当事者がいるのに「この人がいると目が離せないので私の時間が全然なくなりました」など、自分の気持ちだけを吐き出すことがあります。

そのような時、当事者は嫌な気持ちにしかなりません。また、当事者が話をする前に「何年前に認知症と診断され、現在は何歳です」など自己紹介まで家族がしてしまい、当が話をすると「それ違うでしょ」と否定されることがあります。

そんな「場」へ当事者が行きたいと思うはずがありません。

(中略)

家族は「悪いことは言っていない、本当のことを言っているのだから」と思っているはずです。でも当事者のことを思って話をしていることが、当事者を傷つけている場合もあります。そして、家族でもそのことに思いがいたらない人が多いのです。

(中略)

また、支援者自身も自分自身のことも話して欲しいのです。
病気や家族関係に関する一方的な質問、例えば「いつ診断されたの?」とか「何か困っていることはありますか?」等の質問をずっとされると「尋問」のように感じてしまい、話をしたくなくなります。

当事者も「尋問」ではなく「会話」をしたいのです。(本書40ページ)

確かに当事者によかれと思って家族はあれこれと世話したり、禁止したりするが、実際にはプライドもある普通の大人であり、家族の一員であることを忘れてはならないと思う。

認知症についての家族や医師の意見だけでなく、当事者の声が伝わるメディアが世に出るようになったことに社会の変化を感じる。


『誤作動する脳』樋口直美

『誤作動する脳』樋口直美

筆者は40代でうつ病と診断されるが50歳になってレビー小体型認知症と診断される。それ以降、症状と不安とをなだめすかしながら共存している。本書は認知症当事者としてこの世界をどう見ており、どう生きているのかという貴重なレポートである。

異音、幻視、記憶喪失、時間感覚異常、匂い・味覚の喪失など認知症の症状はいろいろあるが、本書では当事者としてどんなときにあるのか、どのように見えるのかを克明に報告してくれている。

私が最初に”人”を見たのは、元気で活動的だった三十代の終わりでした(うつ病と誤診されたのは四一歳レビー小体型認知症と診断されたのは五〇歳です)。

私はそのころ毎週二日、趣味の運動をするために、夜、車で出掛けていました。たっぷり汗をかいて気分よく戻り、車を集合住宅の定位置にバックで駐車します。ピタッと停めた瞬間、心臓が止まりそうになりました。右隣の車の助手席に中年の女性が前を見据えて座っているのです。思わず声を上げそうになった瞬間、女性はパッと消えました。
「えっ、今のは何?」

いくら見てもその女性が消えた助手席は空っぽで、人間と見間違えそうな荷物もありません。ヘッドレストも、カバーなしのシンプルなものです。でも、さっきは確かに女性が座っていて、その女性は透けてもぼやけてもいませんでしたし、顔もくっきりと見えました。中肉中背で、髪は肩までの長さでした。

とはいえ、本当の”人”とも少し違っていたのです。本当の”人”であれば、そこに座っている目的が自然に伝わるはずです。家族を待っているとか、車に落とした物を探しに来たとか……。その女性は、無表情に、ただじっと正面を見据えていました。その佇まいは、夜の駐車場の車の中では不自然でした。

何だったのだろうと考えましたが、見えていた時間はとても短く、消え方は目の錯覚と同じです。「こんな気持ちの悪い目の錯覚もあるんだな・・・・・・」とそのときは思いました。(本書59ページ)

特に衝撃的なのは最初に異常を感じた36歳のときに投薬された薬物に過敏症らしき症状があらわれ、41歳になって精神科を受診してから認知症と診断されるまでの5年間の苦しみ。

その間、医者にはうつ病と診断され、間違った薬物治療を受け続けた。中学生だった子どもたちが大学生と高校生になるこの時期に思い出せることは何もなく、楽しかった思い出は何もないという。

心や感覚に関わる病の治療の危うさを思い知った。家族や医師の声ではなく、当事者の声をこうして直接伝えるメディアがあることは進歩とは言えるのだろうが。