映画『NOMADLAND』Amazon Prime

映画『NOMADLAND』Amazon Prime

高齢者のファーンが夫と暮らしていた街は主要産業である炭鉱が閉鎖になり、街そのものが消滅した。ほどなくして夫が死去。ファーンは社宅である家を失うことにもなり、やがて自分のヴァンで生活することを余儀なくされる。

ファーンはヴァンで寝起きして近所のアマゾンの集配工場に勤務することに。しかし、それは季節勤務のため、そこでの仕事が終わると別の仕事を求め各地を転々とすることになった。

映画は過酷なヴァンでの生活を克明に描き、また路上で知り合った人々との出会いを描くものである。過度な感情表現やストーリーの転換がほとんどない、淡々としたドキュメンタリー風味の映画。米国各地の厳しいが美しい自然や、人々の関わりをとらえた抒情的な映像が印象的だ。

しかし、私はこの映画は現代的な問題意識へも着地することが出来たのにしなかった点に不満が残った。

アマゾン労働者の過酷な労働条件が問題になり、組合活動が活発になりつつあると聞くが、この映画では一切触れられない。工場の労働者はひとり残らず幸せそうである。

また、高齢者が家を失い車上生活を余儀なくされることは社会問題だと考えるが、この映画にはそこに批判的な視点がない。逆に「ノマドはどこにでも行けるし、自由に生きることができる。私たちは幸運な者たち」というセリフがある。

それでいいんだろうか。うがった見方をすれば業界の実力者を批判することはできないということか。実際にこの映画を見たのはAmazon Prime Videoであった。

米国には昔から自由な暮らし、路上の生活に憧れる文化があった。西部開拓期、季節労働者、ケルアックの「路上」もそうだった。

それは経済活動に明け暮れる毎日を過ごす現代人による、憧れとして空想されるものであるのだろう。「持つ者」ほどそうした「何も持たない」ことにロマンチックな憧れが募るものだ。

しかし、現実には車上からIT企業に勤務する者が膨大にいるというカルフォルニア州のように、住宅問題は政治が解決しなければならない社会問題である。

そして私は、ノマドの暮らしをノスタルジアと叙情で描くことで良しとし、これを多くの人々が喝采して受け入れていることに、米国社会の分断を見てしまうのだ。

これを見て人々が「ふざけるな」「こんなものじゃない」という声をこそ聞きたいのだ。

私はこの映画のもうひとつの着地点が見てみたかった。ケン・ローチの映画が無性に見たくなった。

NOMADLAND | Official Trailer | Searchlight Pictures

『認知症世界の歩き方』筧裕介

『認知症世界の歩き方』筧裕介

認知症の人はこんな事をするとか、こんな事を言うとかの本は沢山ある。しかし、この本は認知症の人には世界がこう見える、と教えてくれる。

「こんなことがありました」「気持ち悪いのでこのようにして過ごしております」など当事者への取材に基づいたモノローグを多用し、認知症の方がこの世界を旅する様子を伝えてくれる。

お風呂に入りたがらない。同じ服を着るようになった。それは当人にとってみればもっともな理由があることだし、理由が分かればさてどうしようかと家族も考えることができる。

なのでこの本は認知症の方が身近にいる人、家族に認知症の方がいる人こそ読むべきものだと思った。

著者はライフデザインの専門家。伝えるのが難しいことを親しみやすいイラストや凝ったデザインでうまく伝えている。読者は最初から読む必要はなく、パラパラとめくって気になったところだけを拾い読みすればいい。

私も家族に認知症気味の高齢者がいる。これがあまりにも良い本なので関係者である私のきょうだいにも一冊ずつ送ることにした。「そろそろみんなも考えてくださいよ」というアピールになったと思う。


『筆録 日常対話 私と同性を愛する母と』ホアン・フイチェン

『筆録 日常対話 私と同性を愛する母と』ホアン・フイチェン

先日見たドキュメンタリー映画の監督による同名のエッセイ集。

台湾の貧しい地方で育ち、早くして結婚した母は夫からの暴力に苦しむことになった。そして幼い娘たちを連れての逃避行。

その母はレズビアンであり次々とパートナーを変えた。一方、父は娘である私(著者)には暴力と執拗な執着だけを記憶に残している。

また、本書では、妹について、家について、遠い存在であった親戚についてを思い出しつつ、これまでの人生を振り返っている。

私が特に興味深かったのは、この母が生きる糧とした台湾独自の葬儀文化、陣頭であり牽亡歌陣である。

台湾では葬儀の度に陣頭という死者を弔いあの世へ送り出すための儀式を執り行う。しかし、葬儀の儀式とはいえ日本人が想像するようなしんみりしたものではなく、にぎやかな音楽と踊りのある派手なものだ。

その民俗芸能を演ずるのが牽亡歌陣である。著者もこの牽亡歌陣に6歳から加わり演じてきた。以下にその映像がある。

牽亡歌陣

今日ではすっかり衰退してしまったこの葬儀文化だが、本書には台湾の葬儀社の日常や葬儀の場の様子などが内部から克明に書いてあり、文化資料としては極めて貴重なものだと思う。

日本語でこれに関する資料はまず皆無ではないだろうか。その意味でも本書の日本語訳の意味は大きいと思う。

先日読んだ「私がホームレスだったころ」にもホームレスが出陣頭で稼ぐことがあると記されている。他国を理解するためには文化民俗への興味が必須であるとあらためて感じた。


『私がホームレスだったころ 台湾のソーシャルワーカーが支える未来への一歩』李玟萱(著), 台湾芒草心慈善協会/企画(編集), 橋本恭子(翻訳)

『私がホームレスだったころ 台湾のソーシャルワーカーが支える未来への一歩』李玟萱(著), 台湾芒草心慈善協会/企画(編集), 橋本恭子(翻訳)

台湾・台北のホームレス事情を追ったルポ。前半でホームレス10名の人生を描き、後半では彼らを支援するソーシャルワーカー7名の声を聞き取った。

日本のホームレスもそうだが台湾でも事情は同じ。いろいろな人生があり、いろいろなルートをたどって路上にたどり着くのだということが分かる。

輝かしい人生のひと頃があり、誰もがちょっとしたきっかけで躓くものだ。それが分かればあちらとこちらは地続きで他人事とは思えない。

巻末にある「人間看板」「出陣頭」「玉蘭売り」など台湾のホームレスが主に従事する仕事、それから「ホームレスの家」の写真も興味深い。

また、中山徹(大阪府立大学名誉教授)の解説は、彼我のホームレス事情を実際面および制度面から分かりやすく解いておりよかった。

台湾には個人の住所を持たず、困窮して露頭に迷う人をさす言葉がいくつもある。行政および法律の条文では「遊民(ヨウミン)」が一般的だが、NGOでは「街友(チエヨウ)」を使用する傾向があり、一般市民からは「流浪漢(リュウランハン)」「流浪仔(リュウランザイ)」とも呼ばれている。いずれも路上生活者を意味する。

 


映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』Amazon Prime

映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』

有名なニューヨーク公共図書館の内側と外側を追ったフレデリック・ワイズマン監督作のドキュメンタリー。

同監督の『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』でもそうだったが、この映画でも一切のキャプションとナレーションを廃して、淡々と出来事と人々の会話をつなげるという構成。それで3時間25分を飽きさせない。

 

図書館とは言っても合計92施設、職員3,500人、50%が市からの補助、50%が一般からの寄付による予算によって運営されるこの施設の活動は多岐に渡っている。

収蔵資料の利用講座はもちろん、作家・アーティストのトーク、研究者講演会、読書会、コンサート。ゲストスピーカーにはエルビス・コステロやパティ・スミスもいた。その他にも詩人や作家、研究者らしいのがいたが私の知らない人だった。

また、多言語によるPC教室、高齢者のダンス教室、児童向けのロボットプログラミング講座から、就職フェア、アート展覧会もある。

さらには障害者向け福祉制度の案内、視覚障害者向け点字講座の様子もあった。

特筆すべきは通信会社と交渉し、同図書館の一般貸し出し用としてWiFiルーターを製品化しているなどの活動は、私の考える図書館職員の技能の粋を超えている。

 

舞台芸術図書館の舞台手話通訳教室の説明会の様子があった。ここでは手話通訳者がジェファーソンの独立宣言を使ってデモンストレーション。「あなたは怒りを持ってこれを読んでください。もうひとりのあなたは懇願口調で」と朗読させ、それぞれの様子を交えて手話通訳する。

このエキスパートのテクニックもすごいが、こうしたプロの技術を伝える講座を図書館が主催しているのだ。彼らの芸術と福祉への意識の高さが垣間見えるカットだった。

 

キャプションがないので名前は不明だが、ある作家(研究者?)によるトークが興味深かった。中世のアフリカ・モスリムの宗教者と国王の対立が、ひいては米国の奴隷開放運動の素地になったとする主張だ。

知識人であったアフリカ・モスリムの僧侶たちが国王との対立で奴隷となり米国に売られた。そして米国に奴隷として渡った彼らが、奴隷制度は間違っているというモスリムの知識を広めたのだ。それは南北戦争よりはるか以前のことだったという。

内容はもちろん興味深いのだが、こうした知識が公共の図書館という場所でフリーアクセスになっていること自体が素晴らしい。

 

また、別の連続講座の講師は若い有色人種の女性。テーマは米国建国当時の労働者問題と奴隷制度について。マルクスを引用し「そもそも米国に労働者問題は存在しません。それは奴隷制度があるからです。黒人奴隷がいるかぎり権利をふりかざす労働者は置き換え可能なのです」と語る。

きわめて刺激的な議論が自由に、かつ手際よく行われている。参加者は学生らしい者もいるが高齢者も多い。みな熱心にメモを取りながら聞いている。これも図書館が主催している知へのオープンアクセスなのだ。

 

また、たぶんハーレムあたりのごく小さな分館でのコミュニティトークの様子があった。ごく小さな部屋に普通の市民が集って、何を語るかと言えば生活の苦労などについてざっくばらんに。しかも、そのローカルトークには図書館の上級役員が参加しているのだ。

私も何度も経験しているが、こんなとき日本ではひな壇を用意してそこに行政の担当者を据えるか、会議机をロの字型に設置して、どちらもかしこまって話をするというのが多いのだが、このカットでは本当に狭い部屋にまさに膝を突き合わせてという状態なのだ。

参加者のひとりが言う。

「マグロウヒルは本当にひどい」
「それはどういうこと、もう少し説明して」
「マグロウヒルの教科書では、黒人奴隷は17世紀によりよい生活を求めてアメリカに渡ってきた『労働者』であると書いてある。それは間違いであると指摘されるとしぶしぶ対応するが、そうでないと放置だ」

こうした議論にその上級役員が同意しつつ真摯に自分の意見を述べる。それはコミュニティトークのあるべき形で、私にはちょっとした感動であった。

 

その他に館内の役員ミーティングの議論が何度も淡々と撮影されている。ミーティングのテーマは成果、予算、蔵書の方向(ベストセラーか研究書籍か)、電子書籍について、行政へのアピールについてなど多岐に渡っている。

この役員たちを見て思うのは、みな行政のプロだということだ。

カーネギーの意思である「知のアクセスを可能な限り広く一般に」というミッションに基づき、どう予算を獲得し、どう効果的に執行するのかということを熟知している。それはビジネスマインドと社会的ミッションの幸福な結びつきであると思う。

 

ということでこの巨大図書館の活動には圧倒されることが多いのだが、一方で「図書館がこんなに何でも手がけるのは行政サービスとして適切なのだろうか」という疑問も浮かぶ。

 

自分の住んでいる地域だったらどうだろう。

上記にあるような活動は、区役所の広報誌あるいは区のスポーツ文化事業担当外郭団体の広報誌に案内がある。区で活動する団体はこれに自分のイベントを掲載し、イベントに参加する者はその外郭団体かあるいは団体に直接申し込みすることになる。

アーティスト・トークは区の市民団体の主催で市から助成や後援を受けて文化センターで行うのだろう。障害者支援は区の福祉施設で、就職フェアは民間企業・団体の活動に区の事業課が協賛するのだろう。子ども向け講座はNPOが地域センターで主催し、それを市民活動課が後援する。

 

いずれにしても縦割りである。これまで疑問を感じたことはなかったが、文化支援活動と障害者福祉と児童福祉、ビジネス振興を別個に行うことは本当に適切なのかという疑問がこの映画を見て生じた。

 

決してニューヨーク市のやり方がベストであるとは言わない。

一方で集中することによる危うさも思い浮かぶ。常にオルタナティブについて考える必要はあるのだろう。また、もしかするとニューヨーク市ではそれぞれの分野の活動もそれなりの規模で行われているのかもしれない。

しかし、上記の活動が「知のアクセスを可能な限り広く一般に」というひとつのミッションに基づいてサービスを展開しているという点は高く評価できる。

いずれにしても本作は行政サービスのあり方を考える上で貴重な資料となるドキュメンタリーであると思う。

『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』予告編

映画『日常対話』

映画『日常対話』

自分が母に愛されていないのではという不安から逃れられない娘。そのことを話し合うために彼女は映画を作ることにした。そういうドキュメンタリー映画。台湾から。

アヒルの子」「ぼけますから、よろしくお願いします。」など、娘がカメラを家族内に持ち込んで作る作品は今日ではドキュメンタリー映画のジャンルとなっている。

この映画でもレズビアン、ギャンブル好き、娘に無関心な母、その母へ複雑な感情を持ちながらも愛を求める娘、それぞれの内面の葛藤が見事に浮かび上がっている。

なぜレズビアンなのに子どもを産むことになったのか。なぜ娘である私を他人には養子と言っているのか。そして、娘と父の「関係」を知っていたのか、知らなかったのか。

母娘の関係でありながら話し合われることのなかった事が、カメラの前でつぶやくように初めて言葉にされる。

そうしたこの映画のテーマはもちろん素晴らしいが、映像がまた素晴らしい。侯孝賢が製作総指揮とあり、圧倒の映像美である。思えば「台湾、街かどの人形劇」も父子関係の葛藤を美しい映像で描いた作品だった。

母と娘の対話シーンでは照明は自然光か限りなくそれに模したもの。そして、クリアで自然な映像のカメラが母のアップ、娘のアップ、ふたりのロングで切り替えされる。音声も劇映画のようなクリアな録音で音楽もかなり控えめ。

これは技術も時間もかけているプロの仕事だ。手持ちカメラで勢いだけで作っている日本のドキュメンタリー映画とはかなり違う。

それに出演者の覚悟も大したものである。ドキュメンタリーだからもちろん一般人が自分についてしゃべるのだが、そうした準備の整った撮影現場でスタッフに囲まれても堂々としている。語ることは自分の過去や家族の不幸な出来事についてなのに。

そうした母のかたくなな態度、そして娘の固い意思は、まるでスクリーンのこちら側にいる(映画を観る)者と対峙するかのようだった。こうした表情は日本の家族ドキュメンタリーにはまず見られないのではないか。

アヒルの子」では映画公開についての家族の同意を得るために6年間かかったらしいが、この映画では双方納得してカメラの前に立っているように思う。

ところで、母がレズビアンであることを母の弟や親戚に聞くシーンがある。いずれも「知らない」「話したくない」と席を立つのだが、当時は同性愛が許されなかった時代であったことをうかがわせる。

同性婚自由化が法制化した今日の台湾だが、わずか40年前にもそうした時代があったのだ。私はこの急激な変化に「ダイバーシティを維持する」という台湾社会の強い意志を感じるのだ。

どうして台湾にはそれができて日本ではできないのか。それを考えなくてはならないと思った。

台湾で同性婚が可能になった初年である昨年の同性婚の件数が2939組に上ったことが明らかになりました。内政部(内務省)が(2020年)2月22日、最新の統計を発表したものです。性別の内訳は、男性カップルが928組で、女性カップルが2011組(約68.4%)となりました。
(中略)
全体の婚姻件数は13万4524組で、同性婚が占める割合は約2.2%ですが、同性婚法が施行された5月24日以降(約7ヶ月間)で2939組ですから、決して少なくない数と言えるのではないでしょうか。

(PRIDE JAPANコラムより)https://www.outjapan.co.jp/pride_japan/news/2020/2/26.html

映画『日常対話』予告編

『日本の包茎 ――男の体の200年史』澁谷知美


『日本の包茎 ――男の体の200年史』澁谷知美

歴史社会学者・ジェンダー論研究者による日本男性の包茎に関する感覚についての論文。

医学的には決して異常ではなく、病気でもなく治療も必要としない仮性包茎。これは実際にも多数派である。それを「恥」とする感覚は日本男性特有のものであり中国にも西欧にもない。にも関わらず多くの男性がこれを隠し、方法があれば治療したいと考えているのはなぜなのか。

澁谷によると包茎についての資料は江戸時代中期にもみつかるという。しかし、多くは治療について言及しているのであって「恥」の感覚とは結びついていない。むしろ、快感を増すものとして肯定的に表現しているものもある。

包茎が「恥」の感覚と結びついたのは明治以降、「徴兵検査」での体験として語られることが多くなってからである。それを考えると「富国強兵」と「男尊女卑」と並行してそれが成立され補強されていったものと考えられる。

この日本男性における「恥の感覚」の歴史的成立については本書では触れておらず、別の研究を待ちたい。

さて、その感覚が社会に悪影響を及ぼすのは現代以降、包茎治療がビジネスとしてメディアと結びついて以降のことである。本書の主眼は、90年代以降のこの「恥の感覚」をビジネスとして悪用した医師たちとメディアの行為、その掘り起こしにある。

90年代の男性誌・若者誌(平凡パンチ、プレーボーイ、ポパイ、ホットドッグプレスなど)に包茎治療を手がける形成外科医院が、記事を装ったタイアップを仕掛けた。それは膨大な量と金額であった。その手法は包茎であることを密かに悩んでいる若者層の不安をあおり、手術をすすめるというのものだった。

それは、そもそも隠微な問題であり他人と相談することができない若者を、専門知識がある大人とメディア戦略に長けた大人が搾取するという行為だった。これに関わった医療関係者もメディア関係者も責任を追求されるべきであろう。

そして、そのタイアップ記事には女性の声が多く掲載されていた。いわく包茎男性は「臭い」「持続性がない」「彼氏にしたくない」などと女性に語らせているのである。

しかし、現実の女性が男性の包茎に対し、こうした感覚を持っていたことはまったくないという。それは男性の編集者が捏造した女性の声であった。

澁谷はこれを「男性の医師が、男性の編集者を使って、男性の若者を搾取するための」構図であるとする。そして「女性の声」はその構図を補強するためのツールとして利用されたのである。

一方で、その搾取された側の男性の怒りの方向は女性にむけられると言う。こうした澁谷のジェンダー論からのこの問題への視点は秀逸である。

本書の目的のひとつに、男性間の支配関係がジェンダー不平等にどのように関わるのか、その一般理論を抽出する、というものがあった。これについて答えを先に述べると、「<フィクションとしての女性の目を用いた男性間支配が、女性にたいする男性の敵愾心を涵養し、女性への攻撃を正当化することで、ジェンダー不平等に関与する」というものになる。

分析で明らかになったのは、男が男を動かすさいには「女」の存在が欠かせないことだった。大部分が男によって占められる包茎クリニックの医師や雑誌の編集者たちは、潜在的な患者を手へと向かわせるために、「包茎ってキライ、フケツ」といった「女の意見」を記事に載した。

この「女の意見」で想起されるのは、ハゲ男性へのインタビュー調査をおこなった社会学者・須長史生のいう<フィクションとしての女性の目>である。これは、まったくのウソとか作り話ものが問われないまま男性たちに信じられている点でフィクションといいうる、女性の意見にまつわる男性からの信念のことである。具体的には「ハゲると女性にもてない」が挙げられる。この信念は本や雑誌に登場するし、当事者にも信じられている。だが、実際「ハゲは嫌い」と女性にいわれたことがある者は調査対象者のなかで皆無だった (本書P216)

「ハゲると女性にもてない』のフィクション性は、「女は包茎が嫌い」という男性たちの信念にも共通するものである。「女は不潔なペニスが嫌い」。これはおそらく本当だろう。その点においでは、まったくのウソとか作り話ではない。ただ、それが一足飛びに「女は包茎が嫌い』につながるかというと、その根拠は問われない。第3章で見たように、多くの女はそもそも男性が包茎かどうかを気にしない。包茎を嫌う女もいるだろうが、だからといってすべての女がそうであることにはならない。「女は包茎が嫌い」という男たちの信念は、根拠を問われないまま流する<フィクションとしての女性の目>である。 (本書P217)

この解説は「「包茎ってキライ、フケッ」と吐き捨てる女性像」にも応用できる。これがよくいる女のあり方として認識されれば、男を手術へと向かわせているのは女であるというリアリテが強固なものになる。そして、包茎男性が迫害を受ける風潮に女も加担している、ということになる。

このことは、男たちの女への敵愾心を養うだろう。「包茎ってキライ、フケツ」と好き勝手なことをいい、手術を男に強いる女ども。包茎言説によって培養されたこの女性像は、「男が生きづらい世の中を作っているのは女である」という、すでに流通している女性憎悪ぶくみの認識をより強固なものにする。この種の認識は、「男を苦しめているのは女なのだから、男には女に復讐する権利がある」というロジックで、しばしば女への攻撃の正当化に用いられる。

これら女への敵愾心、憎悪、復讐心、攻撃への権利意識は、女性へのさまざまな暴力や攻撃として表出するかもしれない。性暴力の動機は「性欲を満たすため」であると思われているが、それだけでなく、女性にたいする敵意、憎悪、攻撃欲、権利意識なども、その動機となっている。そして、それは日々起きている。ネットなどで発言する女性やフェミニストへの攻撃も日常的に生じている。それはネット空間を飛び出して、電凸や怪文書の郵送のかたちを取ることもある。 (本書P219)

かくいう私もその仮性包茎の男性である。当時を振り返ってみると多くのメディアが手術を勧めていたことを記憶している。しかし、一方では「女性って本当にそう思っているのか?」と懐疑的であった。

そうしたタイアップ記事のことも眉唾で見ていたもので、当時の若者もそうしたリテラシーはあった。ウソっぽい記事は何となく分かるものだ。しかし、そのうちの何パーセントかが実際に医院の戸を叩くものだとの実感もある。

さて、現代の日本人男性がその恥の意識を完全に乗り越えたとは考えられない。男性中心意識が社会に温存されている以上、相変わらず「恥の感覚」の利用によるメディア操作に陥るものはいるのだろう。

澁谷は処方箋として「包茎をバカにしない性教育」が必要としている。また、社会全体に「新たな男性身体イメージの構築」が必要とも主張する。現場でどのような方法が適当なのか、今後の議論が待たれる。

本書は、そうした議論のために重要な調査・研究成果となろう。


映画『幸福路のチー』Netflix

映画『幸福路のチー』Netflix

台湾の現代女性の生い立ちを描いたアニメ作品。映像のイマジネーションや音声、声優などアニメとしてのクオリティは高いが、それ以上にこの映画に描かれる台湾人の個人史が胸を打つ。若い監督による優れた作品。台湾に興味を持つ者には必見の映画ではないか。

まだ地方都市然とした台北に生まれ、蒋介石像のある小学校で過ごした少女時代。父は北京語を嫌う内省人であり、母のアイドルは陳水扁。そして祖母はアミ族。やがて政治自由化の空気の中で高校大学と過ごし、あの921震災も描かれる。

しかし、映画の中心にあるのは大きな歴史ではなく、その時代を生きたひとりの女性、そしてその人生の選択である。台湾の現代史とはまさに激動であった。それを生きた人々の人生もまた興味深いのは当然である。

ところでこの作品、序盤の会話は台湾語中心らしい。時代が経るにつれ北京語でのやりとりが増えていくという。映画が多言語による構成であること。それが自然であることが台湾社会の多様性を象徴しているように私は感じた。

映画『幸福路のチー』予告編

『ウィーン近郊』黒川創

『ウィーン近郊』黒川創

ウィーンで25年間暮らした兄が自殺した。今は京都に住むその妹がその後の手配のために現地へ飛ぶ。彼女は養子縁組から間もない乳児を連れての旅である。そこで領事官や職場、教会など兄の知人などの手助けを得てつつがなく手配を済ませて帰国するというストーリーである。

あまりない経験であろうが今日では珍しいことではない。そして心象風景も大きな起伏がなくたんたんと綴られる。きわめてパーソナルな感情を個人の枠を大きく出ることなく描くという、私小説という近代日本の純文学の系譜を引き継ぐ作品。

しかし、私小説はあくまでも作家個人の独語がベースであるが、この作品は複数視点による構造でそれが開放感をもたらしている。だから飽きない。

ところで、私は妹の西山奈緒の葬儀場での演説や、領事館の久保寺光のブレヒトやクリムトに関する内的独白は作家が言わせたもので現実のものとは思わない。そしてもちろん作家にはそうする権利があるし、読者にもどうとでも解釈する権利はある。


『武器としての「資本論」』白井聡

武器としての「資本論」 白井 聡

マルクスの資本論の体系的解説書ではなく、同書を素材とした新自由主義打倒への指南書。

「20世紀中庸にあったフォーディズムなどは決して労働者保護政策ではなく、あくまでも国内に消費者育成が必要であったという資本家側の都合によるものである」など興味深い指摘がある。

また、「資本主義的成長終焉の本来の原因は国内に安価な労働力が枯渇したからに過ぎない。低賃金の労働者を求めて海外に移転しても、いずれそれが枯渇するという構造は変わらない。よってそれは単なる時間伸ばしに過ぎない」という指摘は、資本論の21世紀的読み直しによる優れた考察である。

かつて日本を侵略戦争に駆り立てた農村における過剰人口を吸い上げ、使い尽くした時点で莫大な剰余価値を生んでいた労働力のプールがなくなってしまった。これこそが高度成長が終焉した本質的な理由ではなかったか。

アジアでは日本に続いて韓国や台湾が高度成長の波に乗り、その後に中国が大発展し、東南アジアで高い経済成長が実現されていますが、それらの国が成長できた理由もまた、日本の高度成長とまったく同じであり、それらの国の高度成長もまた、日本と同じ理由でやがて終焉を迎えるでしょう。

このように現実の経済を観察していくと、「イノベーションによって生まれる剰余価値は、たかが知れているのだ」とわかってきます。資本主義の発展の肝は結局、 安い労働力にしかなのです。身も蓋もない話ですが、日本の経済発展が頭打ちになっている時代だからそう見えるのではなく、海外も含めて経済発展の歴史を振り返ることで、「結局、すべての国がそうだったのだ」という真実が見えてきます。

高度成長期の金の卵たちは、上京するまで田舎で貧しい暮らしをしていました。 そういう貧 しい若者たちがいたからこそ、 高度成長が可能になったのです。その若者たちは、地元で自足 して、幸せに暮らすことができなかったからこそ、都会へ出て就職しようとしたのです。 それは資本の側から見れば、地方の農村共同体に密着して生きていた人たちを、その共同体から引きはがし、安い労働力として生産現場に連れてくることでした。(p212)

しかし、新自由主義への対抗手段として「階級闘争」を挙げるのは今日の社会で受け入れられるのだろうか。私は極めて否定的である。

今日の社会はマルクスの時代から根本的に変化していないとする本書の指摘には同意する。しかし、それ以降の歴史において社会制度には多くの試行錯誤があった。そして、それによる洗練もあったと思う。本書に限らず、今日、新自由主義への批判も多く聞かれるようになった。なので私はより洗練された社会制度改革に希望を見ている。

米国では民族的(白人至上主義的)分断政策を全面に押し出した政権が否定され、社会民主的政策が政権に近づきつつある(バーニー・サンダースしかり、バイデン大統領のインフラ投資プランしかり)。

日本でも野党第一党は新自由主義的自己責任論から支え合い社会への転換を訴えるようになった。そんな時代でもあり、より今日的な社会改革論が今日の社会では馴染むのではないかと思う。

それにしても本書で引用されている資本論(向坂逸郎編訳、岩波文庫版)の読みにくいこと。元から難解なこともあるだろうが翻訳の問題もあると思う。私は読んだことがないが、これまで日本で多くの学者や学生がこの理解しにくいテキストに取り組んできたことに暗澹たる思いがする。

白井が言うように資本主義を理解する基本中の基本のテキストであるならば、もっとこなれた翻訳書がいくつも出てもいいと思うのだが。