『枝野ビジョン 支え合う日本』枝野幸男

『枝野ビジョン 支え合う日本』枝野幸男

立憲民主党党首の政策表明。「党の綱領とは違う」とはしながらも政策の方向性はこれに沿って策定されることは間違いない。

枝野の政治観は「保守・リベラル」。それは安倍以前の自民党政治と親和性が高い。そして枝野の保守とは、近代以降のわずか150年間ではなく1500年に及ぶ日本の歴史を尊重するものである。一方、現在の自民党が謳う保守はこの近視眼の方であることは言うまでもない。

本書で枝野は政権交代に向けて現在ある社会のあり方ではなく、もうひとつの社会のあり方を選択肢として提示している。それは「賃金の底上げ」「福祉重視」に基づく「内需拡大」である。

それは新しい考えでなく、折に触れて政策ビジョンとして共有してきたし、過去の枝野の著作でも表明されてきた。その政策を実現する政権が取れなかっただけのことである。

ところで、本書でちょっと物足りなかったのはゲームチェンジャー的政策への言及がなかったことである。「全国一律最低賃金」「ベーシックインカム」などに賛否は別にして言及してほしかった。

また、最近話題の資本主義や民主主義への疑問などもそうである。いわく「資本主義は根本的に環境保護に対立するもの」「SDGsは企業の無制限な経済活動への言い訳に過ぎない」など。

次期リーダーを狙う者として、こうした議論や話題を「意識している」くらいは言うべきではなかろうか。

さて、今回の総選挙ではようやく野党共闘が実現しそうである。選挙区調整がすすめば自民党と1対1の構図ができる。国民は自民党的「自己責任」社会か「支え合い」社会かという選択をすればいいだけである。いずれにしても今年中には結論が出る。


映画「ボーダー 二つの世界」Amazon Prime

映画「ボーダー 二つの世界」Amazon Prime

人の感情を嗅ぎ分ける能力を持った税関検査官の女が実は人類ではなかったというストーリー。

スウェーデンの映画は日本人が思う洋画とは違う肌触りがある。ちょっと変わってて面白い。西欧にありながらもキリスト教文化とは距離があるからか。

人類ではない生物の生理をわかりやすく擬人化せず、「感情移入も一体化もできない」と異質なものとして感覚させるこの映画の文法が好ましかった。

それが「残酷」とか「愛情のある」とかはどちらでもいい。いままでいかに多くの映画や小説やアニメで「人間みたいな」動物とか異星人とか悪魔とか神様を見させられてきたことか。

そういった存在は人間に理解できる生態や生理である方が稀なことで、そうじゃない方が多いと考える方が合理的だろう。この映画はその点で覚醒させられる作品だった。

先日、カナダで原住民族の寄宿舎学校で多数の死体が発見されたとのニュースがあった。また「サーミの血」という原住民族への偏見を扱ったスウェーデン映画もあった。

スウェーデンでは原住民族との関わりを意識することがより一般的なのだろう。この映画からは理解して自分の文化に一体化するのではなく、理解できないものはそのままで尊重するべきという意思が感じられる。

だから異民族との関わりにおいて認識するべきことは「境界線(ボーダー)」であって「共感」ではない、というのがこの映画のタイトルの意味なのだろう。

映画『ボーダー 二つの世界』予告編|10/11(金)公開

映画「ラプソディ オブ colors」

映画「ラプソディ オブ colors」

東京蒲田にあった障害者とその支援者の居場所「colors」に集まる人々を追ったドキュメンタリー作品。しかし、この映画は障害者が主役ではなく障害者を支援する大人たちが主役。社会問題や障害者本人に迫るところがなくちょっとがっかり。

また、ここでもカメラを持った監督が対象にあれこれと突っ込んだことを聞いており、最近のドキュメンタリーってこんなの多いなと思った。

子どもたちの事情をきっかけに大人たちが集まって何かをするというのは私の周りでは普通にあった。なので他人の騒ぎを劇場で見せられているようでやや辟易した。

ドキュメンタリー映画【ラプソディ オブ colors】(2020年・佐藤隆之監督) 公式予告篇

「白魔―アーサー・マッケン作品集成〈1〉」アーサー・マッケン

「白魔―アーサー・マッケン作品集成〈1〉」アーサー・マッケン

有名な「パンの大神」を読んでないと思いだして読んでみた。高橋洋の映画「恐怖」はこの小説にインスパイアされたとのことで、確かにモチーフをなぞっている。

脳のある機能を刺激すると本来見えるはずのない物事が見えるようになり、それでその処置をされた女が正気を失っていき、やがて何か邪悪なものを産み落とすという。

それはそれで面白かったのだが、この19世紀末の小説で楽しむべきはホラー風味よりもビクトリア朝後期の雰囲気だと思った。

それは篤い宗教観と科学の進歩が渾然となった時代だが、一方で人権やジェンダーにははるかに意識が低い。その時代の、相続と遺産が生活の糧の高等遊民が日常の怪異に取り組んでいくというストーリーが多い。

これを読むと、この頃の先進国(英国)の一般人の感覚が現代とはかけ離れていることが分かり興味深い。

そもそも当時と今では小説というもののあり方が違う。それはネットはもちろん、テレビもラジオもない時代。小説は時間つぶしのための主要な娯楽なのだ。

それでこれらの小説はほぼひとり語りないしは会話文で延々とつなげる構成で、それは当時としては小説のあるべき形だったのだろう。

なのでホラーファンからは評判の低い「生活の欠片」はホラー、怪異、恐怖小説として読むべきものではなく、当時の人々が他人の人生を垣間見て時間つぶしをするためのものとして優れている。


当時の先進国市民とは「小説」を経験した初めての世代だったのだろう。現代では当たり前に映画やテレビを通じてドラマがあるため意識することすら難しいが、「小説(ドラマ)」というものが人類の意識にとっていかに革命的な意味を持つことかあらためて認識するべきではないかと思った。

当時の人間は小説を読むことで、自己意識を離れ、あるときは他人の人生に同一化し、あるときは他人の人生を大所から俯瞰する感覚を得たのだ。それはそれまで日常しか知らなかった人間にとってなんという自由の感覚であったことか。

そんなことを考えたので古典的作品を評価するとき、当時の人間はどんな意識で生きており、この作品を手にとったときどう感じたのかという視点が常に必要だとも思った。


「台湾、あるいは孤立無援の島の思想」呉叡人

「台湾、あるいは孤立無援の島の思想」呉叡人

台湾人の研究者による台湾に関しての歴史および国際政治評論集。しかし、評論だけではなく詩的な表現や書簡形式、エッセイ風もありと多様な表現形式である。

台湾社会が、自国についてはもちろん、世界政治を、歴史を、日本を、東アジアをどうみているのかが分かる。

台湾をめぐる各国のせめぎあいが微に入り細に入り記述されるのでそれだけでも興味深いのだが、何よりも彼にとっての自国である台湾への絶望と希望が胸に迫る。彼は台湾の現状に悲観的であるが同時に高貴に前向きである(「もうやっていられない、でも、やっていくのだ」サミュエル・ベケット)。

呉は台湾のことを帝国の狭間にはまり込んだ「賤民」と呼ぶ。しかし、それは自己卑下ではなく高らかに「賤民宣言」をする。こうした歴史を持ち、こうした国際的立場にある国にしか持ち得ない特別な立場であることから「賤民」と自称するのだ。

台湾は連続植民支配の歴史、国民党政権による白色テロ、中国の国際的圧迫を受けながらも今日の市民参加型の民主主義(「日々の人民投票」「個人と国家の契約関係を絶えず更新すること」)を実現した。そのことはかつての宗主国であり民主主義の先輩であったはずの日本の立場を逆転した。私はそれを素直に羨ましいと感じる。

この本を読んでいてつくずく思うのは、日本の隣国(台湾と韓国)に民主制度があることの幸運である。

特に台湾の戦後史を見れば、優れた民主主義を自ら獲得することに危うく間に合ったという感がある。例え各種の国際機関からは正式には認められなくとも、その点で市民に支持された正当な民主国家であるとの評価は揺るぎないだろう。大国であろうとも民主的でない国(世界にいくつもある)よりも、台湾は高い尊敬と高い評価を勝ち取っているのではないだろうか。

日本では最近、台湾ブームであるという。観光地としての台湾、親日国としての台湾が人気なのだが、台湾と日本には辛い過去があった。また、台湾には国際政治に今なお翻弄されている現状がある。一方で多民族国家、社会運動、政治制度では世界中が目をみはる実績が顕れつつある。

この本は単なる観光地としての台湾に興味を持った日本人に、そうした今日の台湾社会をより深く理解するための最適な一冊であろう。

なんと言っても初めての政権交代(国民党・李登輝から民主党・陳水扁)が2000年。それから2008年に国民党への揺り戻し(政権奪還・馬英九)があってから、今日の再政権交代(民進党・蔡英文)が2016年。まさに今日の台湾社会は現代史を生きているのだ。

以下、いくつか特に興味を持ったことを挙げる。

  • 日本だけが台湾研究の伝統を持っていること
  • 台湾人が朝鮮戦争で従軍したこと。その軍人が後の文革で地方民族主義者とされ粛清されたこと
  • 村山談話とは世界的に類を見ない旧宗主国による植民地支配への謝罪であったこと
  • 2010年の五大都市選までの期間に市民運動が活性化し、「もうひとつの熟議」が出現したこと
  • 台湾の市民運動が自らの社会に求めることは、「民主的、多元的かつ開放的・公正であること」「正義が保たれていること」「文化的想像力や豊かな生態環境があること」「進歩的な国際視野があること」「経済において持続的であること」
  • 「民進党独力では不可能である。社会運動と連携しなければならない」(蔡英文のスピーチより)
  • 台湾の市民運動が台湾社会の求心力であること

最後に翻訳が優れていることを指摘したい。誤字・脱字はもちろん、適切でない表現もまったくない。これは呉が日本語に堪能であることもあるのだろうが、翻訳者の駒込武の正確な仕事を称賛するべきと思う。

 


「82年生まれ、キム・ジヨン」チョ・ナムジュ

「82年生まれ、キム・ジヨン」チョ・ナムジュ

現代に生きる韓国の女性の生きづらさを綴った小説。韓国社会の状況を知る上で興味深い。

制度的には恵まれているように見える韓国の現代女性だが、実際は各世代の男女の考え方などに残る男性中心主義に悩むことが多いとのことだ。

この小説でも主人公のキムには理解のある夫と幼い子どもがいるが、いつしか精神を病み、回復については最後まで明らかでない。

そういう物語だが、しかし、別に小説でなければならない理由は見当たらない。同じテーマの解説書がいくつもありそうな気がするし、論文やエッセイの方が納得しやすいと思う。物語は水底に触れて浮かび上がり普遍へと向かうものではないのか。

社会や制度に翻弄され、それでも生きていく、あるいは滅んでいく女性の姿は日本でも多く描かれている。古典では林芙美子(放浪記、浮雲)、現代では桐島洋子のエッセイを思い出す。海外ものでは「メイドの手帳(ステファニー・ランド )」がそうだった。

ところで、この小説で韓国の政治制度(大統領制)の弊害についても考えさせられた。確かに韓国では女性活躍制度の導入は早いのだが、この本にあるように制度の対象となる女性があまり幸せになっていない。それは制度を早く整えることに熱心でも社会や国民一人ひとりがそれに追いついていないと読み取れる。

翻って日本を考えてみると社会制度の設計者(議員や官僚)に現実との乖離があるのだ。社会の意識を制度に具体化する部分、つまり選挙制度にボトルネックがあるのだろう。

両国とも社会・政治制度のどこに問題があるのはわかっているのだが改善に向けて進んでいかない。ひとことで言えば両国とも停滞しているのだ。

 


映画「ハンディキャップ・キャンプ: 障がい者運動の夜明け」Netflix

映画「ハンディキャップ・キャンプ: 障がい者運動の夜明け」Netflix

ジェネド・キャンプは1950年代から70年代にかけてニューヨーク州にあった障害者のためのキャンプ。時代がそうだったのでそこでの日々は、ロック、ピース、フリーダム、そして希望に溢れていたものだった。

しかし、障害者の日常はやはり差別と沈鬱さにまみれていた。有名な障害児施設、ニューヨーク州ウィローブルック州立学校では50人の知的障害児に1名の看護人しかいない状態だったことにも触れている。米国であっても当時の障害者の状況はそれから推して知るべしである。

だからこそ健常者の若者たちと過ごすキャンプの日々はより輝いていたのだろう。参加者の中には「ヒッピーと大麻が吸えるらしいので参加してみた」と語るものもいた。

しかし、ジェネド・キャンプでの体験は、障害者たちにとってのひと夏の良い体験にとどまるものではなかった。

それまで行政の視野外であった障害者の権利について定めた連邦法504号が、公民権運動の高まりとともに可決されたのが1971年。しかし、その具体的施行が予算を理由に実施されない日々が続いた。

これに反発した障害者団体が具体的な行動を開始した。マンハッタンでの交通ブロック、ワシントンDCでのデモ、そしてバークリーでの保健教育福祉省ビルの占拠。そしてこれらの活動の中心にあのジェネド・キャンプの参加者であるジュディス・ヒューマンがいたのだ。

自立生活センター(CIL)など、その運動の土壌となったバークリーでの障害者支援活動の様子も生き生きと描かれる。また、ブラックパンサーなど暴力的な活動のイメージが強い団体が障害者の支援に奔走する様子が見られるのは興味深い。

というように、この映画はキャンプでの生き生きとした障害者たちと支援者たちの様子を前半に、彼らによる運動が社会を動かしていく様子を後半に描く。米国の障害者の自立はこうして育まれてきたのかと目の当たりにできる優れたドキュメンタリー映画である。

日本の障害者の運動については「介護者たちは、どう生きていくのか(渡邊琢)」に詳しい。

CRIP CAMP: A DISABILITY REVOLUTION | Official Trailer | Netflix | Documentary | Audio Description

One More Cup of Coffee – Bob Dylan

One More Cup of Coffee – Bob Dylan

Your breath is sweet
Your eyes are like two jewels in the sky
Your back is straight, your hair is smooth
On the pillow where you lie
But I don’t sense affection
No gratitude or love
Your loyalty is not to me
But to the stars above

貴女の吐息は甘く、その瞳は天に輝く光
寝床に横たわる貴女の髪は艷やかに輝く
しかし、そこに愛はない
貴女の想いは私にはなく
天に輝く星々にのみ向けられる

One more cup of coffee for the road
One more cup of coffee ‘fore I go
To the valley below

コーヒーをもう一杯
旅立つ前にもう一杯
谷間の荒野へ旅立つ前の

Your daddy, he’s an outlaw
And a wanderer by trade
He’ll teach you how to pick and choose
And how to throw the blade
He oversees his kingdom
So no stranger does intrude
His voice it trembles as he’s calling out
For another plate of food

貴女の父は無法者である
貴女に果実の選び方を教え
そしてナイフの投げ方を教える
彼は高みから我が王国を見渡し、よそ者を見張る
しかし「もっと食べ物を」と求める彼の声は震えているのだ

One more cup of coffee for the road
One more cup of coffee ‘fore I go
To the valley below

コーヒーをもう一杯
旅立つ前にもう一杯
谷間の荒野へ旅立つ前の

Your sister sees the future
Like your mama and yourself
You’ve never learned to read or write
There’s no books upon your shelf
And your pleasure knows no limits
Your voice is like a meadowlark
But your heart is like an ocean
Mysterious and dark

貴女の姉は運命を読む
貴女の母君も、貴女自身もそうだった
しかし、書棚には読むべき本はなく
貴女はついに読むことも、書くこともできなかった
だから貴女の快楽には終わりがなく
その声は小鳥のさえずりのよう
その心は海のように底知れず
そしてはるかに昏い

One more cup of coffee for the road
One more cup of coffee ‘fore I go
To the valley below

コーヒーをもう一杯
旅立つ前にもう一杯
谷間の荒野へ旅立つ前の


砂漠の王国とその支配者、そしてその家族と流れ者の物語が浮かんでくる。神話的であり宗教的であり象徴的な歌詞がエスニックな演奏と協奏して傑作。

これまでのディランにこんな曲想はなかったのに出てくれば大傑作。実際、別になんとか文学賞出さなくても彼は誰もが認める天才作家である。

Bob Dylan – One More Cup of Coffee (Audio)

「日本の教育はダメじゃない ―国際比較データで問いなおす」小松光・ジェルミー・ラプリー

「日本の教育はダメじゃない ―国際比較データで問いなおす」小松光・ジェルミー・ラプリー

本書はピザティムズピアックなど国際的な調査に基づいた日本の教育への提言である。「だから日本はダメだ」との見方にも、「だから日本はスゴイ」との主張にも与することなく、あくまでも科学的視点の提案に徹底している良書。

本書では巷間に流布する日本の公教育に関する悲観論をデータに基づいた国際比較からひとつひとつ否定していく。

いわく、日本の学生は知識が低い、創造性がない、問題解決能力が低い、学力格差が大きい、大人の学力が低いという評価は、国際的に比較すればすべて根拠がないのだ。

また、日本の学生は勉強時間が長すぎる、勉強に興味を持たない、自分に自信がない、学校が楽しくない、いじめや不登校が多い、先生の授業の質が低いなどのネガティブな(自己)評価がある。

これらは日本人だけが持つ評価であり、実際には世界的に評価が低いわけではない。調査し比較すれば、劣っているわけでも勉強時間が長かったりすることもない。

むしろ、自己評価が低く、勉強時間は少ないのに、学生や大人の知識に高い成果が出ているのはなぜなのかを考えるべきとしている。実際に大人の知識・学力を比較すると、世界ではトップクラスという調査結果である。

また、日本の学校で行われている「授業研究」が世界から注目されていることを指摘し、欧米からの教育方法(アクティブラーニングなど)を輸入する必要性に疑問を呈している。

私は本書における洞察部分、例えば国民の自己認識と自己評価に関して宗教観の違いを指摘している部分(p115)や、教育関係者の意識にある欧米キャッチアップ論に関する指摘(p186)には疑問がある。

一方で、特に給食や体育の授業、生活指導などの「全人的」教育に関する世界比較データが興味深かった。週に1日も体育の授業のない国を比較すれば日本は最低ランク(つまり最も多い)である。さらに詳しい調査があれば見てみたいと思う。

本書の主眼はデータに基づいた国際的な視点から日本の教育を再評価するべきという提言である。私も従来の閉鎖的な悲観論を超えて、こうした視点から日本の教育についての冷静な議論が行われることを望む。

最後に国際調査のまとめ部分を引用する。これだけでも目から鱗が落ちるのではないか。

これで第1章は終わりです。最後に、この章で学んだことをまとめておきましょう。

①日本の子どもたちは、基本的な知識という点では世界トップクラスである。
②知識を創造的に使うという点でも、数学と理科については、世界トップクラスである。ただし読解については数学や理科より劣り、先進国の平均的なレベルである。
③創造性を現実的な問題解決に活かす能力は、世界トップクラスである。
④学力格差に関して、基本的な事項を理解していない子どもは少ない。ただし、学力には社会階層の影響が認められ、他の先進国と同程度に不公平な社会である。
⑤大人になったときの能力は、世界トップクラスである。
⑥学力の一貫した低下傾向は認められない。

(第1章「学力は本当に低いのか?」より p65)

最後に、日本の子どもたちに関するこの章での議論をまとめておきましょう。

①国際的に見ると勉強時間が少なめである。
②受験やテストに対して感じるプレッシャーの程度は、国際的に見ると普通である。
③高い学力を塾通いから説明するのは難しい。
④高い学力は、むしろ、子どもたちの学習に対する考え方や、先生方の授業のやり方によるかもしれない。
⑤勉強に興味をあまり持っていないが、これは「学び」のために必要なことかもしれない。
⑥自分の能力にほとんど自信を持っていないが、そのことが高い学力を支えているのか もしれない。
⑦国際的に見ると、学校が楽しいと感じている子が多い。
⑧いじめは国際的に見ると少なく、不登校も学業の修了という観点からは欧米のドロップアウトの問題よりは相対的に軽徴である。
⑨10代の自殺率は国際的に見て中程度である。
⑩肥満の割合という観点からは、非常に健康である。

(第2章「教育の代償は大きいのか?」より p138)

 


「サハリン島」エドゥアルド・ヴェルキン

「サハリン島」エドゥアルド・ヴェルキン

核兵器と生物兵器によって破滅した世界で、日本だけは唯一の文明国として生き残っている時代。日本が接収した国境の地であり監獄の地でもあるサハリン島を未来学者の美少女とその護衛が旅するというポスト・アポカリプスSF。

ロシア人作家が日本社会を舞台にサハリン島を舞台にしたというだけが目新しい平凡なSF小説だった。

マッキントッシュのコートの下に二丁拳銃を隠し持つロシア・日本人ハーフの美少女未来学者とその護衛役の「銛族」の若者が、犯罪と不正と疫病の蔓延する無法地帯を旅するという、マンガやゲーム、アニメにありそうな設定。

ワクワクとした展開がスピーディにすすみ、エンディングにはそこはかとない悲哀が漂うというよくできたシナリオであるが、これは優れた文学とは言えない。長くて(386p)時間つぶしに良いという利点があるのみ。

ただ、この世代のロシアの作家がどうしてこういう小説を書いたのだろうということは気になる。世界戦争で生き残り、唯一文明を保持しているが、国境地帯では中国人や朝鮮人を虐殺している。ロシアはすでに滅び去っており、アメリカ人は見世物として檻で飼われているという日本社会。

小説なので何を書いても構わないのだが、これを翻訳し読んでいる日本人は居心地悪くならないのだろうか。この作家は素朴な日本ファンである「だけ」とは言えなのではないか。そう考えるのは穿ち過ぎだろうか。