「肉体のアナーキズム」黒ダライ児(グラムブックス)
1960年代、反芸術のうねりとともに湧き起こったアートパフォーマンス。
この本の主役は、その担い手の中でも「ハイレッドセンター」や「具体」など美術史に採り上げられる者たちではない。それは、時代の流れに忘れ去られていった者たち。
なので、この本は客観的な解説書とは言えない。しかし、これまで誰も手をつけなかった現代史の空白にクサビを打ち込んだことは確かだ。昨年度のアート業界において最大の問題書である。
そして、ここに描かれる激動の時代に体を張って美術家であることを貫いた者たちは、現代のアートシーンへ向けてその覚悟を問いかけているようでもある。
その時代のパフォーマンスやイベントは、今日では映像はもちろん、写真も記事も残されてないので伝説性だけが高まっている。それらについて入手できる限りの資料を基に再現してくれているのがありがたい。
ひたすら椅子から倒れ続けるという風倉匠のパフォーマンス。
「ゼロ次元」の万博破壊共闘派における全裸片手上げ。そして尻蔵界と寝体。
糸井貫二による万博会場・太陽の広場における全裸疾走など。
また、中央に対しては無名を貫き、内紛と挑発を繰り返し、必然的に自己崩壊へ突き進んだ「集団蜘蛛」の生き様はかえって清々しい。
しかし、本書のそうしたリアルなエピソードについては激しく興味をそそられるのだが、当時の時代背景や文化を解釈する部分についてはやや退屈した。
1960年代はパフォーマンスはもちろん、アートだけでは解釈できない時代だった。それについては文化や社会評論への問題提起にとどめておく程度でもよかったように思う。
先日、たまたま九州派と近しい関係にあった方と個人的に話す機会があったが、その破天荒な日々を懐かしそうに語る口調が印象的だった。
1960年代は冥い輝きを放つ激烈な時代であったことは確かだが、しょせんわずか10年間だった。それから今日までにはすでに40年間が経過している。あの60年代を駆け抜けた彼らのその後の40年間も興味深いものだろう。
本書に登場する者たちの一部は鬼籍に入られた方もいるが、そうでない方も多いはず。調査では彼らに対するインタビューもあっただろう。そこにはその40年間についても色濃くにじみ出ていることだろうから、その聞き書きがあるともっと良かった。
いずれにしても、本書は現代史の空白の一部を埋める取り組みであり、労作であることは間違いない。これを引き継ぐ研究が後続することを期待する。
また、作者は福岡アジ美の学芸員で、過去に「九州派」、「ネオ・ダダの写真」などの展覧会を手がけたとのこと。あらためて、本書のテーマを採りあげたアーカイブ展をしてくれないものか。