「笹まくら」丸谷才一(新潮文庫)
1960年台だから終戦から20年も経っている頃のはなし。大学職員の浜田には徴兵忌避者として日本中をさまよっていた過去がある。小説は砂絵師として各地を放浪した日々と、現在の職場や家庭でのあれこれが交互に描かれる。
放浪の日々のよるべなさ、終わる見込みの無い逃亡という絶望も緊迫感があるが、戦争を受け入れずに逃亡したという経歴、そして後ろめたさが職場での出世や夫婦の関係にも影を落としている。
逆コースと言えば占領期の言葉だが、戦後20年も経てば戦時体制の否定とか民主思想の確立という熱意も薄れていく。人々の意識には戦場や銃後での辛苦の感傷のみが残り、うまく逃げおおせたという浜田への嫉妬や反発をひきおこす。
あるいはそれは浜田の気のせいで、それを最も恐れているのは浜田自身なのかもしれない。小説はそうした徴兵忌避者の、戦争の日々から遠く離れた現在の世相への不安をにじませている。
ひるがえって戦争ができる国に(ふたたび)なることが仕方のないことと巷間に上る現代の、私を含むある層の不安とそれは同期する。
そもそも小説とはそうした「気分」を表現するもの。人間の行動や心理を描くことで、そうした「気分」を表現するものである。小説が決して時間つぶしのためのものでないことを認識させてくれる一編であった。
この小説は浜田の逃亡への旅立ちを最後のパートとしている。逃亡の日々の苦労や現在の後悔をすでに読んでいる私は知っているわけだが、それでもこの戦時体制への小さな反逆の旅立ちは、私を晴れ晴れとした気分にさせた。これもこの小説が伝える気分のひとつである。