「退屈しのぎ」原節子(角川書店)
原節子のエッセイがあるとどこかで聞き、図書館を検索して手に入れた。しかし、手にしてみるとどうも様子が違う。昔のハヤカワ・ミステリみたいに小口がブルーのインクで染められてる。表紙の女性の写真がどうも違う人のような。中を開くと横書き。しかし、背表紙には原節子、角川春樹、松任谷由実、アニエス b.などと意味ありげな名前が映画のタイトルバック風にレイアウトされている。

さて、本の内容はというとエッセイではなく物語らしい。主人公はフランス貴族と結婚して子どもが生まれたものの、夫はその直後に逝去したという日本人女性。いまは義母と南フランスの城に同居している。読みたかったものとかなり違うのでどうかと思いながら読み進めていたが、意外と楽しめる。
物語はこの女性による日記形式で進められる。読んでいるとこの女性があきれるくらい自堕落で、無知なことがわかってくる。とても好感を持つことはできない。それなのに物語の視点が極めて主観的かつ狭窄的なので、好きでもない人物に強制的に自己同一化されたような気分になってくる。これが仕組まれた語り口ならば作者はかなりのやり手だ。

セバスチャン・ジャプリゾの「シンデレラの罠」という、記憶と顔を失った主人公のひとり語り形式のミステリを思い出した。
いずれにしてもこの本は期待どおりのものではなかったがとても面白い。思わぬ拾い物をした気分だった。
ところで原節子だが、戦前から戦後にかけて大活躍した大女優でありながら42歳で世間から完全に姿を消した。今でも鎌倉の浄妙寺に暮らしていると言われているが誰も消息を知らない。これもミステリーである。
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この本についてアマゾンを始めウェブで調べてみても情報がなかった。アマゾンのページに普通ある出版社からの説明すらない。そもそもこの本には、解説はおろか著者略歴すらないのだ。いまどき大手出版社の書籍なのに、こんなに情報のない本があるのものかとちょっと背筋が寒くなった。この本そのものがミステリーに取り巻かれていると言える。

もしかして、華やかな世界と隠棲の日々を知り尽くした女性が、ちょっと思いついたトリックを物語にしてみようかなと思い、旧知の知人に声をかけたところトントンと大手出版社から書籍化となった、という流れを空想してみたりもしたが。
本そのものもミステリーだが、作者についても、本を取り巻く状況についてもミステリーであるという、これは久しぶりに面白い読書体験であった。