『私たちの津久井やまゆり園事件 障害者とともに〈共生社会〉の明日へ』堀利和
青い芝の会が「母よ!殺すな」と訴え、府中療育センター闘争があった1970年代。この時代の障害者運動の視点から現代のこの事件を問い直すのがこの本の趣旨だと思う。
本書は実に多くの課題を投げかけている。
曰く、なぜ被害者は匿名にされなければならなかったのか、なぜ保護者はそうなることを望んだのか。なぜ今日にも人々に優生保護的思想はあるのか。障害者施設とは何なのか、コロニーとは何なのか。障害者施設の地域移行や障害者の自立生活はなぜ進まないのか。措置入院制度とは何なのか、本事件を経ての精神福祉法改正、あるいは改悪の意味は何なのか。
しかし、私は最も重要な問いは「はたして知的障害者は隠しておくべきなのか」ではないかと思った。そして、この事件によって引き起こされた多くの議論や提起された課題について私なりの結論を言えば「社会が変わる必要がある」のだ。
一般の人々は障害者について、特に重度知的障害者について「考えたことがない、考えたくない」と言う。それこそが社会の機能不全であろう。私たちはもはや、どうすべきかについて曖昧な答えはいらない。残念ながらこの事件がきっかけになったわけだが「具体的にどうすれば良いのか」を社会のひとりひとりが持つべきであることが明らかになったのだと思う。
そして、そのためには障害者、および重度知的障害者を社会から隠しておくべきではないと考える。もちろん見て身近に感じて、その結果拒否反応があることを懸念する方もいるだろう。しかし、今日の我々の社会はそんなに柔軟性にかける社会であるとも思わない。
もちろん私も同情や理念だけで納得のいく障害者福祉が実現するとも思っていない。ましては重度精神障害者が地域で受け入れられるまでには膨大な障壁があるだろうことは想像できる。しかし、いずれも十分な予算と措置があれば乗り越えられないものではない。要は国としての決断があれば実現するのだ。
それよりもパラリンピックや24時間テレビの度に世の中が浮かれていることをこそ懸念する。こうした活躍する障害者を見せられて感動させられる構図は、SDGsの欺瞞性と同じ構図ではないのか。
さて、本書では「施設とはどういう場所なのか。施設での生活とはどう言うものなのか」の記述が特に衝撃的である。あまりにも悲惨で切り取って引用するのははばかられる。本書164ページからの「第5章 入所施設は重度知的障害者の生きる場か―日本とスウェーデン」(河東田博)を読んでほしい。
また、56ページからの「(資料)第七回神奈川県障害者施策会議専門部会議事録(家族会および職員からの意見聴取)」は必読である。施設立て直しか地域移行かで揺れる保護者の複雑な心情が伺える。
重度障害者について、これまで多くの優れた映像作品や書籍がある。「夜明け前の子どもたち」「道草」「ズレてる支援!」。私はこれらの作品が一定の評価を受けていることを目の当たりにしているからこそ、この社会が事件の犯人のように極端な思想に染まってしまうとは思えない。世の中は障害者の地域移行を受け入れる準備ができているのだ。