『少数者は語る 台湾原住民女性文学の多元的視野 (上)(下)』楊翠

『少数者は語る 台湾原住民女性文学の多元的視野 (上)(下)』楊翠

台湾の文学・歴史研究者による台湾原住民族の女性作家に関する論文集。研究論文ではあるが原住民族というマイノリティ中のさらに女性であるというマイノリティによって書かれた文学作品を通じて、台湾の近現代史が生々しい痛みを伴って表現される。著者本人も台湾原住民族シラヤ族の血を引いているとのこと。

第1部「台湾原住民文学概観」では定量的調査として原住民文学賞(「山海文学賞」と「台湾原住民族文学賞」)の受賞者から女性作家を挙げてその人数、回数を分析している。この章だけで台湾原住民族女性作家の主要プレーヤーが把握できるだろう。また、本章において民主化と歩みをひとつにした原住民による街頭行動から故郷へ帰ろう運動へ至る歴史が詳細に語られる。これだけでも台湾史研究においての空白を埋める大きな業績ではなかろうか。

さて、第1部は3人の女性詩人(董恕明、伍聖馨、明夏)を取り上げた後、以下の章でそれ以外の作家を個々に分析していく。いずれも日本では馴染のない作家ばかりで、日本語に翻訳されている作品は極めて少ない。しかし、著者の記述によってストーリーもテーマも伝わり、未読者の意欲を激しく唆るものになっている。

私は特に第2部第1章で取り上げられているチュワス・ラワの生涯に先ず打ちのめされた。チュワスは日本統治時代から国民党独裁時代にかけて生きたタイヤル族女性である。後年、『山深情遥』という彼女の人生の語り書きを発表した。これは彼女がカタカナで書いたものを日本人と台湾人の研究者が本人に逐一確認しつつ文章にしていくというスタイルである。その手法には研究者による解釈が含まれる余地があり、意思の押し付けになっていないかなど課題がある。それはそれとして何よりも彼女の人生そのものが衝撃である。

チュワスはタイヤル族部落で皇民化教育を受けた世代であるが、日本に対する報恩の念が極めて強い。光復後は逃亡者の立場となった日本人の男性を愛し、共に山野を彷徨し街に隠れ住み、川でひとりで堕胎してまでもその男に尽くしたという。私は原住民族の皇民化教育が日本帝国主義に好都合な「一定」の成果をあげたのではなかろうかと考えているが、ある原住民族女性にここまでの心酔を呼んだのは逆にどうしてなのかと感じた。しかし、これはまさに理解を超えた事実であり、当時の日本の原住民族研究に欠かせないエピソードになるのではないかと思う。それにしても日本や台湾の歴史研究ではチュワスについての記述をまったく見かけないのが不思議だ。

同じ第2部の第2章で取り上げられているリムイ・アキの『懐郷』は邦訳がありこれは私も以前読んだ。原住民族の父系文化と部族のジェンダー意識にかなり批判的な小説であり、この小説の批判的視線が極めて稀であることが確認できた。ともすれば一般に原住民族の日常がミステリアスかつファンタジー的に受け止められることへのアンチテーゼであろう。実際に原住民族の支配民族邂逅前の生活を幸福に満ちたもの、現代からは憧れを込めた視線で語られるものとして描くことは多いが批判的に描くものに出会うことはほとんどない。それは男性・女性を問わずどの作家にも違いを認められない。

私は「近代文明との遭遇以前の原住民族は理想郷に生きていた」という見方に対して、本当にそうだったのかという疑いを拭い去ることができない。現代の民俗学的研究を見れば狩猟採取民族の暮らしは食料の生産可能性と人口増加の危ういバランスの上にかろうじて成り立っており、その崩壊に常時さらされていたのではないかと考えている。限られた土地でリソースを巡って種族同士の多くの闘争もあったのは間違いない。その日常には死や傷病苦、堕胎など多くの悲惨や残酷なこともあったのだと思うことは難しくない。それに関しては『台湾北部タイヤル族から見た近現代史』にも記述があった。

第3部ではリカラッ・アウー、リイキン・ユマ、アチグを取り上げて原住民族アイデンティティ問題をテーマに掘り下げる。台湾の人々には個人のアイデンティティの問題はお馴染みである。しかし、それはエスニック・グループ(または省籍)に関連した内省的なものではないかと思うが、特に原住民族女性についてはさらに複雑であろうと見ることは難しくない。ここで取り上げられている3人の作家について言えば、彼女らの父は外省人であり、母は原住民族である。そして白色テロの被害者でもある。父の故郷(大陸)への愛着と落ち延びた台湾への憎しみ、こうした状況の原因となった国民党あるいは共産党への憎しみがその子に何度となく聞かせられる。一方で故郷の部族と伝統を捨てて嫁ぎ、嫁ぎ先では部族出身者として激しい差別にさらされた母たち。子らはやはりその姿を常に目撃し、差別は彼女らにも向けられた。後年差別を避けるために漢民族文化に染まった自分が部族を、文化を葬り、母を遠ざけたことで自らを苛むことになる。安全な立場からの意見で申し訳ないと思うが、私はこれこそまさに文学の領域であると思う。これらの文学的成果は政治・経済に偏った日本の台湾歴史研究へのアンチテーゼなのではなかろうか。

第4部第2章ではこのエスニック意識を異にする父と母と娘の関係がさらに深く分析される。取り上げられるのは鍾文音、郝誉翔、リカラッ・アウーの3人である。上記の父を理想化する・しない、母の原住民族文化を拒絶する・戻っていくという葛藤は、ただでさえ入り組んでいる台湾の人々のエスニック意識をさらに複雑にしている。しかし、いずれも人生の選択を通じてそれらの課題に何らかの解決を見出しているこれらの作品は感動的なものであろう。読めるものがないことは極めて残念でありつくずく邦訳が待たれる。

『台湾北部タイヤル族から見た近現代史』を読んで民主化以降の原住民族運動の推移について知りたいと思っていた。それは本書の付録『ポスト原住民運動・ジェンダー・民族 現代台湾原住民族女性運動家群像』によってほぼ満たされた。これは運動の内部から見た街頭行動とその後の故郷へ帰ろう運動の精神史である。

その他、台湾のことではないが第4部第1章にあったオーセルが語るチベットにおける文化大革命の徹底的な文化破壊については継続して研究するべきと思った。

また、外省人への最大の白色テロと言われる「澎湖七一三事件」という初見の情報があった。これは山東省から国共内戦の戦禍を避けるために8,000人の中学生を澎湖島に移動させた煙台連合中学という運動があり、一方で兵士不足に悩んでいた澎湖島の国民党軍司令が強制的にこれらの中学生を入隊させようと目論んだ。連合中学の校長はこれを拒絶したが、その結果、校長をはじめ教師と学生100人余が銃殺、1,500人が海に投げ込まれ、5,000人の中学生が軍に入れられたという事件である。国共内戦の悲惨は『チャーズ―出口なき大地』でもいくつか日本で知られているが、まだ日本人の知らない事件がこの時代には多くあったのであろうとうかがえる。

最後に翻訳の魚住悦子の流麗であり緻密な文章には最大限の賛辞を送りたい。翻訳という仕事の正確さも素晴らしいが、こうしたどの程度日本で受け入れられるか不透明な分野の書籍を日本語にしたという熱意こそとてつもない業績であると思う。こうした本を日本語で読めることの幸運を、本づくりに関わった方々への感謝とともにかみしめている。