『台湾原住民文学選』 [8 原住民文化・文学言説集 Ⅰ] [9 原住民文化・文学言説集 Ⅱ]
台湾原住民文学選中これらの2冊は評論集である。「8 文学言説集 Ⅰ]」は原住民族の研究者によるものであり、「9 文学言説集 Ⅱ]」は漢民族の研究者によるものである。私は文学には優れた批判と評論が必須だと考えており、本書はこれを裏付けるような充実した評論集である。
本書に、ある台湾原住民族作家が日本のアイヌ民族に文学表現が少ないのに驚いたという記述がある。私はその理由には日本人がアイヌ文化・文学評論に本気で取り組んでこなかったからなのではないかと思う。
台湾原住民族文学に深く根ざした課題として文字をどうするのかというものがある。近代以降の原住民族作家は民主化以前は細々と、それ以降は爆発的に表現を行うことになったのだが、そこで彼ら表現者に突きつけられたのがローマ字で書くべきなのか漢字で書くべきなのかという問題である。
本来原住民族の表現は口承で物語を伝え、またアドリブで展開させていくというものだった。これを文字によって固定することはそもそも適当なのか、それによって従来の民族の表現意識に影響を及ぼすことはないのか。
さらに加えれば、原住民族文学とは原住民族によって書かれた文学なのか、それとも漢民族や日本人であろうとも原住民族について書かれたものなのかという所属問題もある。一方で書き言葉がないとコミュニティが崩壊し始めると記録や伝承の喪失も加速度的に速くなるという問題もある。
こうした課題は現在でも盛んに議論が行われており結論はまだ出ていない。言ってみれば原住民族文学の評論はこうした文学表現の基礎となる要素から議論しなければならないわけである。
しかし、そのことでかえって作家と評論家、研究者に議論が途切れることがなく、常に活発なやりとりがあるように感じる。他国者の勝手な感想かもしれないが、それは彼らが「表現すること」を自らの運動によって勝ち取ってきたことが原動力だからではないだろうか。
ところで、日本人からすると台湾の人々は常に大陸からの圧迫にさらされ、アイデンティティの危機を感じているとの見方がある。しかし、台湾原住民族からすると彼ら漢民族は、日本人や国民党に先立つ最初の圧制者である。本書を読んで私はそうした視点を拓かれた思いがした。
本書に霧社事件が1920年代の台湾議会設置運動に関わった林献堂、蔡恵如らに大きなインパクトを与えたことについての記述があった。メモとして以下に引用しておく。
霧社事件は高らかな鐘の音のように響き渡り、漢族インテリたちを大漢中心主義から呼び覚ました。ただし、もし当時の漢族エリートたちが進歩的思想の啓蒙を受けていなければ、たとえ霧社事件が百回起こっても、このように強烈な覚醒はなかったであろう。やっとこの時代になって、原住民に関する漢族の言説は「プレモダン」な蒙昧を脱し、反植民主義の雛形を形成するようになったのだと言える。だが残念なことに、左翼運動の継承は戦後の白色テロで途絶え、反植民主義も発展の場を失ってしまった。その後の発展は、一九八〇年代の戒厳令解除まで待たねばならない。その時初めて、原住民エリートたちは立ち上がり、主体的な原住民論が展開されていった。(p 62「文学の原住民と原住民の文学(陳昭瑛)」より)