『佐藤春夫台湾小説集-女誡扇綺譚』

『佐藤春夫台湾小説集-女誡扇綺譚』

佐藤春夫といえば大正・昭和に活躍した文学者だが、彼は1920年の夏に台湾を旅した。日本統治が始まってから25年目のこと。本書は彼の台湾を舞台とした小説アンソロジーである。小説だけでなく紀行文もあり、書かれた時期もそれぞれである。

世の中に日本統治時代の記録は多々あるが文学者によるものは多くないのではないか。陳腐な表現で申し訳ないが瑞々しい感性で大正時代の自由な空気から植民地台湾を描いている。対象となるのは本島人(台湾の漢族)、原住民族、内地人(日本人)などさまざま。

特に記憶に残ったのが不穏な情勢を背景に霧社での原住民族の人々との出会いを記録した「霧社」。内地人と結婚し後ほど捨てられた女と二人の少女娼婦との出会いが印象的だった。

また、台中での名家の人びとを訪れたことを描いた「殖民地の旅」がすばらしい。本作品では阿罩霧(アダム)に林献堂を訪ねて思わぬ政治・社会問題の議論をすることになるくだりがある。

林献堂といえば台湾の近代史では欠かすことのできないキーパーソンであるが学術文献の通り一遍な記述にはない、イキイキとした様子に小説の中で出会うことができる。この研ぎ澄まされた知性から論理を繰り出す林とその場逃れの言い訳でやり過ごそうとしてやり込められる佐藤の問答は痛快ですらある。

この時代に台湾民主化運動のリーダーとしてこうした人物がいたことを高い解像度で納得させてくれた短編である。思えば台湾の歴史においてはどんな時にも優秀は人物がいたのだ。

(前略)政治的地位の優越必ずしも文明の優秀を意味するやを問題とする者であります。それで凡庸な小政治家などの意見はどうでもいいとして私はこの問題を自己の重大運命とする者であるから機会ある毎に内地の定評ある諸名士に訊してみるわけで(後略)(p.244)

日本の帝国主義が西欧のそれと違うのは植民地とする地域がすでに高い文明や長い歴史を持ち、洗練された統治制度を経験していることではないかと思ったことがある。上記の林の言葉からそれが思い出された。

さて、解説文で初めて知ったことだが、「女誡扇綺譚」が台湾では今でも人気が高い小説らしい。2020年には台南の国立台湾文学館で佐藤春夫展開催され、日体共通の古典として注目を集めているとのことだった。