大正、戦前、戦後にかけて吉屋信子が出会った女流作家を取り上げて思い出を綴るエッセイ集。林芙美子、岡本かの子、宮本百合子など、いずれも佳人であるだけでなく、たくましく時代を駆け抜けていった女たちの様子を当時の時代の空気とともに描いている。
岡本かの子と出会った夜の帰路、神楽坂からの帰路牛込見附の電車内での思い出は味わい深い。また、林芙美子との今生の別れとなった築地の料理屋で階段を上りきれない様子は鬼気迫るものがある。徳田秋声をして芸術品と謳われた山田順子の美貌を高原ホテルのレストランで目の当たりにしたシーンも爽快である。
本書にあった人物のうち最も惹かれたのが長谷川時雨である(私は彼女の作品を読んだことがない)。きっぷのいい江戸の下町っ子であり、かつ男社会への反発と女性への共感を隠さない女流作家であることが信子の筆によって爽やかに描かれている。特に信子が時雨・於菟吉邸を訪れた際の一幕。やや長いがあまりにいい箇所なので引用する。
その頃、一種のアナーキストみたいな青年たちが、自らの青春と社会への反抗心を持てあまして、ぶらぶらと文士や画家の許を訪れてポケットマネーをねだり取るという所業を痛快がるのが流行していた。わたくしの小さい家にさえこのひとたちは招かれざる客として時折に現われたのだから、時雨・於菟吉居を襲うのは当然だった。
その彼等が玄関でわめく声を耳にするなり時雨さんはいきなりお俠な歯切れのいいかんの立った声を玄関に向かって張り上げた。
「煩いねえ、君たちは、つい昨日も誰かお仲間がやって来たばかりだよ、毎日はごめんだよ、今日はさっさと尻尾を巻いておとなしくお帰りよ!」
その調子がなんとも言えぬ小気味のよいさわやかな、まったく女の東京ッ子のたんかであった。
わたくしは恍惚としてその声を言葉を聞いて酔えるごとしだった。ああじぶんなどが一生かかっても、とうていこういうイキのいい口調と言葉は出せないと哀しいぐらいだった。
だが彼等アナーキスト連中は、時雨さんのたんかにもなかなか尻尾を巻かなかった。そして(いつまでもここに居すわらア)とかなんとか、だみ声をあげると、
「なに言ってやがる、てめいたちの泥臭いおどし文句にいちいちへこたれてたまるものか、わけえくせにそんなゆすりのような真似をしてるのを、てめえたちのおふくろが見たら泣くだろうよ、かわいそうに……」
こう前よりひときわかん高い調子の烈しさで時雨さんは言い返しながら、眉一つ動かさず平然とわたくしの前の小さいコップにキューラソーをたおやかな手つきでつぐのである。
ただ、ただ……わたくしは驚嘆してしまった。
明治十二年のしぐれ月に日本橋に生れて、長唄、清元、踊を仕込まれ、両国の鉄物問屋の若旦那に嫁して逃げ出して新佃島の小松を植えた父の家にこもってのち書いた舞踊劇を六代目菊五郎に演じさせた美女ならではこのたんかは切れないはずだった。
さすがのアナーキスト連もしゅんと鳴りを静めて泥靴か板草履の音をさせて門外に退散してしまった。
この最初の訪問でこの出来事で、時雨さんから受けた強烈なる印象はいまも昨日のごとく忘れない。(「美女しぐれ 長谷川時雨と私」p153)
ところで田辺聖子も指摘していたが信子の文章は小説にしても随筆にしても一文が長い。引用者が自ら句点を補わなくてなならないこともある。例えば、
ところが、あいにくまことに残念にも娘は風邪寝でその母親が罷り出てしまった。そしてその隣には時雨さんが母はそれが雑誌の写真で見た時雨さんと見当がつくと、じぶんが場ちがいのところに来たひけ目からか、娘のわたくしの名を告げてその代理でと小さくなって告げたという。すると時雨さんは(お嬢さんのお作はよく拝見していますよ。まだお若いのに……)とかなんとか、はたして何を拝見されたかどうかわからぬが……ともかく母を優しくいたわる言葉をかけて、それからさあたいへんなお心づかいで、雑誌社が催けた招待者への食堂の席へも同伴、卓上の土瓶から絶えずお茶を母についで下さる……はては母が手洗いに行く時も同道、そして座席へ連れ帰るという、まったく至れり尽せりの御親切を戴いて、母はただ感謝感激で……娘の風邪の熱のあがるほど繰り返して述べ立てて、わたくしを唖然とさせてしまった。(「美女しぐれ 長谷川時雨と私」p149)
しかし、このような文章のリズムは横書き・キーボード書きがほぼ全てである現代のテキストには見られない。読んでいると信子が原稿用紙に縦書きで書いている姿が彷彿とする。原稿用紙を上から下への万年筆を移動しながら埋めていく肉体的な文体である。それを感じながら読むのが戦前作家のひとつの楽しみ方ではなかろうか。
本書には多くの女流作家が登場するのだが、いずれも苦労を重ねている。そして、その苦労は男性との恋愛問題が多くを占めている。それら女流作家の作品も自ずと恋愛と男女関係を主題とするものが多く重苦しい印象を拭えない。しかし、信子の作品にはそうした重苦しさのない、ある種突き抜けた感じがある。
それは信子が男女間の恋愛よりも女性同士の恋愛を至上のものとしているからだろう。女性同士の方が助け合える、理解し合えるという信念があるからこそ他の女流作家と違って男女の恋愛に一歩引いたところに身を置くことできる。そこが吉屋文学の魅力なのだと思った。