『地図で読み解く日本統治下の台湾』陸傳傑

『地図で読み解く日本統治下の台湾』陸傳傑

著者の陸傳傑は台湾人の地図研究者。本書は全面カラー刷りの大型本。各ページに掲載されている多くの古今の地図が美しい。また、本書は台湾の近代史を地図から読み解くという読み物でもあり、台湾人による台湾の近代史のエピソードが楽しい読み物になっている。

本書のそのエピソードをいくつか紹介する。

1970年代のこと。陸が台南の善化・新営の駅にいるとき駅員が無賃乗車の高校生をつかまえたことがあった。高校生は駅員室へ連れていかれ駅員たちからお説教をされたらしいのだが、その説教はどうやら日本語だったらしい。

当時の台湾鉄道の職員はほとんどが明確な日本精神を有し、日常でも日本語を使っていたとのこと。そのくらい台湾鉄道は日本の影響を受けていたのだ。日本政府が南北縦貫線鉄道を建設し、それが台湾人の一体感を醸造したというのはよく聞かれることだ。しかし、1970年代になっても台湾鉄道の職員が日本語をしゃべっていたというのは初めて聞いた。

また、樟脳の利権に関するエピソードも興味深い。樟脳はクスノキから生成されるが、19世紀当時、世界的にも樟脳は薬品、火薬、セルロイドなどの生産に欠かせない化学工業材料だった。そして台湾は当時世界の95%の樟脳を生産していた。

その台湾樟脳の生産を巡って当時の宗主国日本は膨大な労力を払って権益の拡大を図った。台湾総督府が広範な理蕃作戦などを実施し、ようやく樟脳生産事業が軌道に乗りかけたその時、ドイツが人工樟脳の生産に成功した。これによって台湾産樟脳の需要が激減したことは言うまでもない。

これはまさに科学技術の進歩が歴史に大きな変化をもたらした好例である。今日では台湾史の専門書でも指摘されることの少ない台湾史の一頁でろう。

さて、これは太平洋戦争末期のことになるが、米国はフィリピン、沖縄と飛び石作戦を実行し、台湾には空爆はしたが上陸はしなかった。当時、米国の海軍は台湾上陸を検討しており占領計画までも策定していた。作戦立案においては台湾上陸占領実施はほぼ確定したことだった。しかし、マッカーサーによるトルーマン大統領への説得が功を奏し、陸軍が策定した台湾をとび越えて沖縄上陸の実施へと覆った。

米軍による台湾上陸があったならその犠牲は沖縄でのそれを超えるものになったかもしれない。しかし、米軍が台湾に駐留していたら戦後の国民党支配に影響を与えた可能性もある。

実は黒船のペリーも台湾占領を考えていたらしく、ペリーの台湾占領、太平洋戦争の米軍台湾占領という「台湾のアメリカ化」という機会が近代史に2回もあったということになる。ときに歴史家は歴史のIFを考えることがあると言うがこれは大きなIFであろう。

最後に戦後最初の行政長官の陳儀のエピソードを挙げる。日本統治が日本の敗戦によって終了した後、国民党政権から台湾に派遣された初代行政長官の陳儀は実は親日派だったのではないかという説である。

終戦直後、台湾にいた日本人は当然引き上げ・帰国を命じられたわけだが、実は28,000人もの日本人技術者をそのまま留用する計画があった。それは陳儀が日本人技術者を代替することのできる人材が台湾には不足しているのではないかと考えていたからだった。

しかし、それが台湾本省人にもできる仕事を日本人にさせるということへの不満を本省人に抱かせ、それが228事件の遠因になったのではないかとの説もある。

その後の変遷を経て最終的には留用された日本人技術者は260人になったのだが、当初の計画通り28,000人の技術者、その家族を含めれば94,238人という、当時の在台日本人の4分の1にも上る日本人が戦後の台湾に残留した場合、戦後の台湾社会にどのような影響を及ぼしたのかは興味深いことである。

戦後の台湾社会には外省人という新たなエスニックグループが生まれたわけだが、同時に在台日本人というエスニックグループが生まれる可能性があった。

陳儀は日本陸軍の士官学校卒であり、日本人の妻がいることから親日を疑われている。

最後の章「大日本帝國地図最後の一ピース」では地図を巡る中国と日本の受容と発展の違いが詳しく描かれている。日本人は測量法など地図作成の技術面に熱心であり、また市販の地図も多く一般の地図への興味が高かった。一方で中国では地図は皇帝が戦争時に必要とするものでしかなく一般に知らしめるものではなかったという。こうした国民的文化・気質の違いを陸は是非もなく違いは違いとして書いているが、こうした率直な意見を台湾人から聞くのは意義深い。

翻訳については文章の趣旨に一貫していない部分があってややこなれていない印象がある。そこが残念だった。