『三国志 第1巻から12巻』宮城谷昌光

『三国志 第1巻から12巻』宮城谷昌光

アニメやゲームで評判になっているがそういえば読んだことがないと思い、教養として読む気になった。しかし、せっかく読むならまずは原典に近いものをということで選んだのが本書。宮城谷の本作は三国志正史を原典としており、私にはその真偽を確かめるすべはないが史実に忠実なはずである。

全12巻で三国志の100年以上に渡る旅。その間、他の本を読まず約1ヶ月間で読了した。宮城谷のスタイルは対象の人物や出来事を史実から挙げ、その背景や人間関係を詳述していくというもの。ひたすら脇道に入り込み、そもそも何の(誰の)ことだっけと思うことが多いが、これが楽しい。それは楽しい寄り道である。

しかも、見知らぬ土地の、数千年前のことで地図を見ても地名や距離感が把握し難い。また、人名・地名の漢字にしても日本人に馴染みのないものが多い。多分現代の中国人にとってもそうだろう。それが無造作に放り出すように作中に配置してあり、読者はそれに苦労しながら物語を追うことになる。しかし、それが一種幻惑的な効果をもたらし、やがてその2世紀頃の国盗り物語に惑溺することになる。これぞ小説読みの歓びではないか。


本書は劉備や曹操、孫権が登場するはるか過去から始まる。2巻の終わりごろになってようやく曹操の祖父が生まれるという有り様。しかし、そこから説き起こさなければ三国志という時代の成り立ちや歴史上の意義が理解できないということなのだろう。

それにしても三国鼎立以前の時代と、その時代が終わりに向かう時代、本シリーズで言う最初の2巻と最後の2巻は沈鬱の極みである。王朝の人々はそれぞれ恐怖し、憎しみ合い、裏切りと殺し合いが頻繁にあった。皇帝という絶対権力に悪意と欲望にまみれた人々が群がった。それに対して忠誠と王道を説く優良の徒が簡単に誅されていった。

それ故もあって三国のリーダー、曹操、孫権、劉備とそれぞれに従う忠臣が知力と実力も持ってぶつかりあう時代が来たときの爽快感は底しれないほどだ。泥で濁った池に清流が流れ込み、みるみるうちに澄み渡っていくようである。


それにしても三国志演義では悪役、引き立て役になっている者らが本書では公平かつ納得行くように描かれている。

例えば魏の曹操である。人間的にも成熟しており部下を信頼し人の使い方もうまい。なので慕ってくる名士も数多い。今で言う仕事のできるリーダーである。私もこの時代にあれば曹操の下で働くのが最も安心できるし実力も発揮できるだろう。一方呉の孫権は怖いものなしの若手のリーダー。スタートアップ起業家といったところだろうか。

ところが劉備といったら何も無い。関帝の血胤であるプライドを胸に秘め、地方で草鞋を打って細々と生活をしていたに過ぎない。しかし、結果としては三国の一角である蜀の王となっている。なぜ彼に関羽、張飛、趙雲という百人力の将が付き、中国史上最高の知将諸葛亮が従ったのか、それは本書を読んでも明らかにはならない。


本書では劉備の負けっぷり、逃げっぷりがいくつも挙げられている。これは負けると思ったら仲間も妻も子どもも捨てて一人で逃げる。しかし、逃げた将のために身を投げ出す者が常にいる。趙雲は敵陣に残された劉備の妻子を守って何千里も突破した英雄譚が史実となっている。

しかし、劉備はただの成り上がり者ではない。ひたすらトップを目指すといった当時の、あるいは今日にもいる上昇志向の人でもない。劉備の意識はそれを超えたところにあったのではないかとさえ思う。それが今日になっても人々が曹操でもなく孫権でもなく劉備に惹かれる理由なのではないだろうか。

劉備が劉璋を成都に攻めたときのこと、劉備が仲間のある名士に劉璋と話に行ってくれるよう依頼した。ああいいよ、とばかりにふらっと敵陣に乗り込んだ彼は敵将である劉璋と酒を酌み交わし天下国家を大いに語り合ったという。そんな日々が数日経ったころ劉璋が君は私を降伏するように説得に来たのではないのか、それを劉備に頼まれたのではないかと尋ねた。すると名士いわく、そんなことは頼まれていない、ただ語り合ってくるようにと言われたと応えた。それを聞いて劉璋は考え込んだ、劉備はもしかすると自分の理解を超える者なのかもしれない。結果的に劉璋は劉備に城を明け渡すことになったという。

三国志を国盗りゲームと見ることが今日になっても多いと思うが、この物語の妙はこうした単なるゲームを超えたところにある大人(たいじん)の意識のありようなのではないかと私は思う。

いずれにしても劉備は絶対的な力だけが物を言うこの時代に、無一文の立場から三国鼎立の一角を担うまでに仲間と共に戦乱の世を駆け抜けた。それは「蜀の夢」とも言うべき一陣の涼風を感じさせる。呉の裏切りにより関羽を失ってからの無意味な呉伐、それに伴う病死という惨めな最後さえもかえって冷徹な他の将軍とは違うものとして劉備の魅力を高めている。


ところで天才軍師対決と言えば諸葛亮と周瑜だろう。本書では三国志演義で言われているものとは違い、赤壁の戦いはほぼすべてが運を味方につけた周瑜のみの完全勝利であった。孔明と劉備はその周辺を巡っていただけで戦いには関与していない。それどころか現地から烏林、華容、広陵と脱出する曹操をみすみす見逃したと疑われるような行動をしている。映画「レッドクリフ」にあったような草船借箭も借東風もなかった。それが史実である。

しかし、そうした三国志時代全体にわたって決定的な影響をもたらした赤壁の戦いを勝利した周瑜であったがその時がピークであった。著者の宮城谷によればこの時の周瑜こそ神がもたらした一撃であり、与えられた役割を十全に果たした後は冴えないものであったという。

一方で諸葛亮・孔明は演義や映画ほどには活躍しない。しかし、劉備に燭を託された後は国力の充溢と政治の安定に集中し他の二国にはない成長をもたらした。実際、改元の回数では燭は圧倒的に少なかった。没後敵将からも尊敬を集め、戦中であっても墓陵を荒らすことはなく参詣を行うことがあったという。


教養に値する古典はいずれも読んで失望することのないものである。ましてや中国古典の最高傑作である三国志である。ゲームでも映画でもいいから何らかの形でふれておくべきであろう。そしていつかは正史に基づいた三国志を手にとって見ればいいと思う。考えてみれば同時代(2世紀)の歴史文学で比肩できるのはカエサルのガリア戦記くらいなものか。これにしてもボリュームの点でははるかに小さいものである。中国歴史文学の芳醇さをつくづくと思う。

ところで本書12巻を読んでいて脇にいつもこの本があった。「昭文社刊地図でスッと頭に入る三国志」である。地理のみならず人間関係をサッと把握するのにどれだけ役にたったか分からない。同時に購入することをつよくオススメする。