『横光利一と台湾—東アジアにおける新感覚派(モダニズム)の誕生』 謝惠貞
台湾日本時代(1895-1945)の日本文学による台湾および東アジア文学への影響をテーマとした論文集。著者は台湾人研究者であるが本書は翻訳ではなく日本語で書かれている。
「1920-30年代、東アジアにおいて、日本のモダニズム文学は広く受容されていた。」と第9章の冒頭にある。
当時の台湾社会は日本語公用語化がすすみ、台湾人は台湾語(閩南語)文字化の実現を阻まれた。そこで台湾人作家もやむなく日本語で作品を書くことが一般的となっていた。そこまでは自分の知識として理解しているが、本書で研究対象に挙げられている作家群、巫永福、翁鬧、劉吶鷗、鍾理和、龍瑛宗、劉吶鴎(以上台湾)、李箱(朝鮮)は私にとって全く馴染みのない名前である。
よって私は本書の内容を十分理解したとは言えない。自分にかろうじて読み取ることができたのは、日本文学、特に横光利一らの新感覚派文学が当時の台湾文壇に大いに影響したということである。
本書の読みどころは当時日本最先端の文学運動である新感覚派とそのリーダーである横光利一作品が台湾の文壇にどのように受け入れられ、台湾人の日本語作家がどのような作品を書いてきたのかであると思う。また、当時の台湾社会がどのように日本文学や小説を受け入れていたのかを読み取ることであろう。それは日本語の読み書きが可能であり日本語の小説を読むことを愛好する層に限ってということではあるが。
いずれにしてもそれはその時代に関する現代の我々の理解解像度をかなり高めてくれるものである。本書が貴重な調査研究であることは間違いないと思う。
日本の植民地政策には多くの害悪があったのは承知の上で考えてみれば、日本統治期の半世紀は日本列島に限定されていた日本語空間が一気に広がった期間でもあったと言えよう。そしてそれは中華文化や朝鮮文化という優れた文化を有している土地に日本語の網が重なったということでもある。それは日本文学の周縁を押し広げ、その深みを加える可能性のあった時空間でもあったのではないか。
日本語と台湾語、客家語、中国語、朝鮮語(もちろん多くの原住民族語たち)のクロスオーバーという言語実験の可能性、あるいは植民地という周縁文学発展の可能性も歴史の「IF」としてあり得たのではないかと考えた(ここで連想したのは南米マジックリアリズムとポルトガル語、スペイン語の出会いである)。
しかし、実際日本の文学者や評論家は台湾や朝鮮の日本語文学を顧みることなく、あくまでも日本国内、特に東京を舞台にそこにいる高等遊民や政治・経済ばかりを対象にした作品を書き、議論に明け暮れていた。きわめて残念なことであった。
横光本人の台湾への関わりについては付録論文でこれをテーマとしている。また、巻末の資料集、脚注、参考文献が充実していることは特に指摘したい。
また、横光作品で未読のもの(「皮膚」「頭ならびに腹」「蝿」「目に見えた虱」)があったので探して読むことにする。本書の目次がアマゾンの当該書ページにあったこともメモしておく。
本書に台湾話語論争と朝鮮における書き言葉に関する興味深い記述があったので以下に引用する。
言語レベルから見れば、台湾では、台湾語を母語とする台湾人は、一九三〇から三四年の間、熱烈に「台湾話文論争」を繰り広げながらも、総督府の統制により実現できなかったため、その文字化が困難なまま、中国語と日本語を取り入れざるをえなかった。日本語教育の世代が次第に、日本語を介して日本文学や世界の思潮を吸収するようになり、彼らによる日本語での文学展開が徐々に主流となっていく。総督府の指導で、一九三七年以降、殆どのメディアが漢文欄を廃止する前には既に、日本語で新文学を創作するのが主流であった。
その一方、朝鮮では、一九一九年の民族自決の風潮を受けた三・一運動をきっかけに、第二次朝鮮教育令による宥和政策の下に、『東亜日報』『朝鮮日報』などの朝鮮語の新聞が創刊され、朝鮮人による朝鮮語規範化も進められ、韓国語の言説空間自体が成立されていく。三ツ井崇によれば、この時期には、日本語強制の深化と平行して、統治のために朝鮮語を発展させることを利用する側面がある。その後、三七年の日中戦争以降は日本語使用への圧力が強まり、四〇年に朝鮮語民間紙の強制廃刊も命じられた。
(p271, p272)