港区アート・アーカイヴ=地域芸術資源採掘プロジェクト「なにかいってくれ いま さがす」@慶應義塾大学三田キャンパス東館6F G-SEC Lab.
港区アート・アーカイヴ=地域芸術資源採掘プロジェクト「なにかいってくれ いま さがす」@慶應義塾大学三田キャンパス東館6F G-SEC Lab.
昨年10月の国立近美でのシンポジウム以来、私は慶應アート・センターのことをアートアーカイヴの最左翼と呼ぶことにした。
その若手スタッフ、上崎千と久保仁志によるシンポジウムは、1968年に草月アートセンターが行った当時最先端の作家たちを集めて行われたイベント、「なにかいってくれ いまさがす」をテーマに採りあげた。
その対象となるイベントを意識してか、このシンポジウムも各方面の論客を10人も迎えて先鋭感のあふれるものとなった。
詩人の松井茂は貴重な「7人の刑事」のビデオを流した上で、この時期のテレビ番組がビデオとしてほとんど残っていないことを述べ、テレビ番組におけるアーカイブのあり方について指摘した。
明大の映画研究者、平沢剛はこれまた貴重なフィルム、「椅子を探す男」を上映し、映像作家としての勅使河原宏の再評価を訴えた。
金沢21世紀美のキュレーター鷲田めるろは、明治時代に井上馨が金沢の旧家を訪れたときの記録を掘り起こし、型/反復としてのアーカイブについての可能性を指摘した。
東大の平倉圭はパゾリーニが書いたケネディ暗殺のフィルムにまつわるエッセイを採り上げ、「アーカイブは死ななければならない」という刺激的な問題提起をする。
慶應アート・センターの上崎千は下着ドロボウの押収品が体育館いっぱいに広げられた写真をベースに、アーカイブの残響について説いた。
同じく慶應アート・センター久保仁志は、アイテムが時系列に配置されたとき、さらに複雑な残響が発すること。これに伴うエイゼンシュタインが指摘した残響の一形態であるオーバートーンモンタージュについて語った。
東近美の三輪健仁は、「1970年8月―現代美術の一断面」展の資料を材料に、アーカイブの単位としての個々の作品と展覧会について指摘。
映画監督の大森立嗣は現代の「ゴドーを待ちながら」とも言うべき新作ショートフィルムを寡黙に上映した。
エディトリアルデザイナーの森大志郎は、ポスターやチラシを印刷所で実際に製作していく過程をつまびらかにし、その工程で発生する多くの版におけるアーカイブの可能性について述べた。
東大の荒川徹は勅使河原宏の「おとし穴」のフィルムを上映し、その背景を精密に分析した。そして、ボタ山などその人工的な景色が当時の作家たちをどのように魅了したのか、またそのボタ山のその後と現在について語った。
ここではこのようにそれぞれ簡単にしか書けないが、いずれも深みのある内容で、もっと時間をかけて考察してみたいものばかり。しかし、このシンポジウムは、とにかく長い、テーマが拡散している。
13:00からスタートし、パネリストの基調講演が終わったのが17:00。それからようやくオープンディスカッションの始まりとなった。私は次の予定があり18:30でギブアップ。
そうした問題点はありながらも、それぞれの提起した問題はいずれも極めて興味深く、めくるめくような知的刺激にあふれている。
もし、このシンポジウムの企画者が、こうした濃密で刺激ある時間をつくることによって、あの1968年の草月ホールのひとときを追体験させることを企んでいたのだとしたら、彼らは大した策士だと認めざるをえない。