『藤田嗣治「異邦人」の生涯』近藤史人
竹橋の近代美術館に行っても、大阪の国立国際美術館にいっても、常設エリアの片隅に一枚でもあると、ほっとため息つきながら上品な高齢女性がたたずんでいる姿をみかける。今日ではこんなに誰からも愛される日本を代表する作家なのに、その歴史は一筋縄ではなかったらしい。そんな経歴や疑問を、そつなくかつコンパクトに書き切っている一冊。
徒手空拳で渡仏、戦時下のパリ、そして人気が花開くエコール・ド・パリ時代を通じて、彼が交流したのはザッキン、モディリアーニ、アンリ・ルソー、シャガールと教科書に出てくるような作家たち。彼らと共に貧乏生活を送り、友情を育んだ日本人作家が存在したということがあらためて驚きだった。
また、パリではそんなに活躍し、もてはやされていたのに、日本の画壇ではあからさまに軽視され、ほとんど無視されていたことがもっと驚き。
その後、帰国してから戦争画を描き、結果として戦時体制へ協力。このことが戦後、画家仲間に批判され、やがて藤田は日本国籍を捨てることなる。私がこれらの時期について感じたのは、藤田の絵を描くことに対する天真爛漫さだった。
当時の人や現代の人が政治や思惑などについて考えをめぐらせて、いろいろな解釈をするのだが、結局藤田は手を動かして絵を描くのがたまらなく好きな一人の画家だったということではないか。
クラフトマンシップと創造性のある人(こうした人を作家と呼ぶ)は、そもそも手を動かして何かを作るのが好き。それはもちろん現代でも、巨匠から市居まで作家と言われる人に共通しています。政治的にどうだとか周囲になんと言われようが、「こうすればこんな作品ができる」とアイデアを思いつき、作品を生み出す内的衝動があればやってしまうもの。
その意味で藤田はごく作家らしい作家であり、狂騒のパリにいようが戦時下の東京にいようがそのように振舞ったということではないか。
ところで一時的にGHQに接収された200点に及ぶ戦争画が日本に返還され、国立近代美術館にあるということを初めて知った。まとまった展示会が周辺国への配慮からいまだに開かれていないということも。
「アッツ島玉砕」も「サイパン島同胞臣節を全うす」も竹橋で何度か見てはいるが、どちらも戦争絵画という分類を超えた永遠性を獲得している作品だった。とてつもない迫力がある。
今日ではあの時代をアートという視点で冷静に見ることは決して不可能ではない。そこにあるのはもう美術関係者の「自主規制」しか残っていないのではないか。
そろそろ日本人作家による戦争画の本格的な展示会の開催を期待したい。
それにしても、生涯を通じて指先から次々と作品を作り出し、才能の結果を形として多く残した藤田の人生は、いろいろあったが幸福なものであったことは間違いない。うらやましい人生だ。