トーマス・デマンド展@東京都現代美術館
歴史的事件のあった場所や米国大統領執務室などをペーパークラフトで再現して撮影した写真作品。福島第一原発の制御室のあわてて放棄された様子も。
ひと通り見てどのくらいの大きさなんだろうとか、どうやって作ったんだろうとか、アート的興味よりもクラフトワーク的興味をより掻き立てられた。しかし、それを確認させてくれる展示物は一切ない。
そもそもキャプションも写真からあえて離れたところに配置されていたり、説明も出口近くに目立たないように積み上げられていたりとなるべく予断なく鑑賞することを促しているようだった。
私はこれを見ていて、コンピュータグラフィックスによる映像構築のことを思い出した。
CG制作は無の空間に世界を構築すること。新規で開かれたプロジェクトには地面も床も、空も天井もない。そして自然界ならあらかじめある空気や重力さえも設定しなければならない。
机、椅子などのオブジェクトは自分でモデリングするか、どこからかオブジェクトデータを買ってくることになる。
しかし、CGで有利なのはひとつのオブジェクトは限りなくコピーすることができること。なので、画面には全く同じ形態のものがいくつも存在することがよくある。樹木ならば同じ枝、葉。室内ならば同じ机、椅子、照明器具。
もちろんそのパターン性を希釈するようにマテリアルやランダム配置などいろんな工夫をする。しかし、どんなに工夫しても人間なら生理的に感じる非現実性がなくなることはない。
そうした映像をいくつも作ったり見たりする度に思うのは、人間は創造主にはなれないということ。ひとりの人間やチームに完璧な世界を創造することはできない。
しかし、その不完全で非現実的な世界には不思議な美しさがある。私は、オブジェクトで満たされてはいても何かが大きく欠けているその世界には、空虚であることの歓びがあると思う。神の配慮の行き届かない世界は心地よい。
デマンドの作品にもそれを感じた。展示室の写真群にはいろいろな歴史的事件や空間の意味性が付与されているのだが、画面に漂う安らぎ感によって現実との距離感が強調されていると思った。