映画『ニーチェの馬』

映画「ニーチェの馬」

最初にニーチェと馬のエピソードが語られるので、あの馬はそれだとの解釈は勝手にすればいい。出てくるのはおそらく中欧、の貧しい農家に暮らす片腕の不自由な老人と中年にさしかかったその娘。この物語はその小さな世界の日常を通じて描かれる世界の終わり。ケレン味たっぷりで、出来のわるい映画だった。

思い出すのはこのふたりの食事のシーンばかり。夕食はゆでたじゃがいものみ。それを手づかみで皮をむいてそのまま食べる。しかも、ほとんど残す。あのじゃがいもは日本のスーパーで見るものの2倍はある。おそらくほとんどは食べられない部分で、食べられる部分だけを選んで食べているのだろうか。

また、朝食は立ったままウォッカのみ。父は2杯、娘は1杯。あれが中欧の農家の日常生活だと言うのだろうか。ハンガリーの監督らしいが、現地の人にどう思うのか聞いてみたい。ロシア文学を読んでいてもここまでひどい食事は知らないが。無駄な寒々しさだけが漂う食事で、これだけは「最も寒々とした食事シーン」として映画史に残るかもしれない。

馬とか井戸のエピソードで世界の終りを象徴しているのだろう。こうした小さな世界を通じて終末を描く映画はいくつも見た。「風が吹くとき」「渚にて」など。

しかし、そのうちでも忘れられなくなるものは祈りのあるものだ。例えばタルコフスキーのノスタルジア。ロウソクの火を守りながら歩を進める長回し。この映画(ニーチェ)にはそうした意思の崇高さをたたえるところがない。共感のない終末の危機感だけを煽っているだけではただのプロパガンダである。あるいは世をはかなんだ老人の泣き言か。

実験映画とか芸術映画の衣をまとっていればそれなりに持ち上げられるのか。作る側も見る側もまずは思想を深めてから表現に向かって欲しいと思う。