映画「わたしたちに許された特別な時間の終わり」
才能がありながらも認められないミュージシャンが自死に至るというありふれた出来事である。撮りためたビデオを一本の映画に完結させるために取ってつけたようなフィクション部分である。それでもこの映画には見てよかった、見るべきものを見たと感じさせてくれるものがある。
それは未来がどうなろうと、映画とか音楽とか表現することにこだわり続け、作品を完結させようとする、あらゆる表現者の業が滲み出でているからである。
高校時代に音楽コンクールに優勝するなど才能のあるミュージシャンであった増田壮太。同じく音楽家を志しながらも才能不足を自覚している冨永蔵人。二人の共通の友人である映像作家志望の太田信吾。
当初は何らかの映画にしようと漠然と撮影した映像であったが、増田の自死により、残された二人は大きな葛藤を経て映画を完成させることにする。
映画にはドキュメンタリー部分と、仮面の男と自殺した女のやりとりというフィクション部分がある。そしてそのフィクション部分を撮影する太田と冨永を含むクルーの撮影風景というドキュメンタリー映像もある。それなりに凝ったつくりであるが、いずれのパートも中途半端。とってつけた感がある。
しかし、全編を通じて滲んでくるのは何が何でも完成させるという意志である。
そのためには違和感に満ちた小芝居もする。死んだ青年の親にカメラを向け、そのカメラを向けている自分を別のカメラで撮りもする。クルーに生じた対立を煽り、起きた小競り合いにすかさずカメラを回す。
太田と冨永の作品を完成させるという意思と、その意思の表出としてのこうした行動が私の心をうったのである。
それが死んでいったふたりの友人への唯一のはなむけだと考えているのではないか。増田の遺言には「作品は完成させてほしい」とあったらしい。
近頃では見てよかったと思えるような映画がなくなった。それでもいくつかあるのだが、そのいずれもがドキュメンタリーであるのはなぜか。
取り組むべきテーマを自覚した表現者がカメラという道具を使ってする行為そのものに感動するのである。本作品のように、対象そのものよりも行為そのものに。