『障害者排除の論理を超えて: 津久井やまゆり園殺傷事件の深層を探る』阿部芳久
残念ながら津久井やまゆり園事件が障害者福祉の理念を理論化した役割は大きい。
多くの当事者や研究者らが事件以後、「なぜ私たちは重度障害者と生きていかなければならないのか」「この社会における障害者福祉の価値・意味とは何なのか」をテーマとした文章を発表し、発言をするようになった。それは彼らにとっては自明のことであり言語化する必要性も機会も少なかった。しかし、多くの者があらためて犯人「U」の言う「障害者は生きていてもムダ」という言葉に対して「反論」が必要であると考えてのことだろう。
さて、本書で著者は障害者の迫害に関する歴史的事件や社会問題を取り上げて、なぜ障害者を保護することが社会にとって重要なのかを論ずる。「すべての命は等しく重要であり、我々は障害者も含めて人権を尊重しなければならない」というのが著者の主な主張であろう。
しかし、私はこの考え方は時代状況によって変化するであろうことを危惧する。特に現代の新自由主義的な政治状況を見るにつけそう感じる。むしろ障害者福祉にはもっと根源的な理由があるのではないだろうか。
では、その根源的な理由とは何だろう。身も蓋もないことであり前向きでもない話だが、あえて言えばそれは「恐怖」ではないか。自らの生存への恐怖、自らの存在を喪うという恐怖である。つまり障害者は炭鉱のインコであり社会のバロメーターである。私はそのように障害者を見つめる自分のことを残念ながら自覚している。
それは人権という「理念」だけでは戦争・貧困・独裁・気候変動などの社会情勢によって、自分の意思があっさりと変わることを目の当たりにするのではないかと考えるからである。障害者福祉にはきれいごとや感覚や理念ではなく、人間の奥底を見つめる批判精神が必要であろう。その点では本書の論点はどれも感情の域を出ない。
私はむしろ「資本主義 vs. 福祉」という対立構造を自覚する必要があるのではないかと考える。「障害者排除の論理を超えて」というタイトルの本書で、私は「なぜ障害者福祉は資本主義社会に対立するのか」という考えが理論化されることが読みたかったのだ。
弱者に対する社会の態度として自分の経験をここでひとつ挙げる。自分の長子が生まれる直前にパパママ教室の講師である産婦人科医(男性)の言葉である。
親と子の関係は特殊です。子どもの生命が危ういときあなたの命を代わりに差し出せば助かります、と言われたら親はためらわないのです。自分の親の場合、兄弟の場合、配偶者の場合、ちょっと考えるのです。しかし、自分の子どもだった場合には「さっさとやってください」と言うのです。
この言葉を思い出すと自己犠牲を伴う共感の例が意外と身近にあることをいつも思い出すのだ。それは太古から変わることなくあるのだろう。
障害者が存在することによって、私たちの社会が健全で安らかのものになっているということを述べたが、人類の進化にも障害者の存在が影響したことを示唆する報告がなされている。
NHK総合で「人類誕生未来編こうしてヒトが生まれた」という番組が放映された。人類の進化におい180万年前のホモ・エレクトスが居住したジョージアのドマニン遺跡で、歯のない頭蓋骨が発見された。ジョージア国立博物館のデビッド・ロルドキパニゼ博士は、この頭蓋骨の人は歯のない状態で何年も生きながらえたことを発見している。
何故、歯のない状態で長く生きられたのか。それは、この頭蓋骨の人は仲間に助けられていたからだとデビッド博士は語る。人類の連帯感や思いやりの心が芽生えていた痕跡だと分析する。
ホモ・エレクトスはそれまでの人類とは異なる人間的な性質を持ち、集団で支え合い、助け合って暮らしていたと推測する。予感もしこのことが事実であるとすれば、歯のない人、すなわち弱者がその仲間たちに人間的な思いやりの心を持たせる契機を作ったことになる。
歯のない人だけでなく障害者も仲間に助けられて暮らしていた可能性がある。障害者を含む弱者が存在したことによって、共同社会の仲間に思いやりの心を芽生えさせ、その後、心をもったヒトとして進化していったのだろう。(本書 p254)
- 多様性の維持(台湾の多民族・多言語共生社会)
- 福祉のコストと文化芸術のコスト
- 福祉人件費の改善