『一億年のテレスコープ』春暮康一
遠未来、遠過去、近未来を交互に描きつつ、「宇宙の果てを探り続ける意思」がテーマのSF。
現代に生きている日本人が主人公なのだが、彼らは早々に情報化されて実質上不死となる。さすがに物語は光速の壁を超えることはなく、その分登場人物の生命が永遠に続くというわけだ。
グレゴリー・ベンフォードならば物語に老齢の人物を配置して時間の有限性を意識させたものだが、本書の登場人物は(肉体的にも精神的にも)いつまでも若々しい。これは批判的に受け取ってほしい。
さて、『ディアスポラ』(グレッグ・イーガン)と違ってこちらの場合は霊にあたる未知の量子化された部分が脳のコピーを不可能にしているという想定。
『ディアスポラ』ではいくつもの自分のコピーが存在し、適宜それを利用する。その後の経験によってそれぞれの個性に差異が生じ、ときにはそれぞれの道を歩んでいくこともあるという世界。こちらの方が究極的であり読む者の理解を超えることが多いが、その分めくるめくような知的興奮を呼んだ。
その点、本書は分かりやすいが読んでいて想像を絶するという感覚は乏しい。想像力の果てを拡張してくれるような興奮はない。
宇宙論と知性の探求論にしても既視感があり、ひとつひとつのエピソードに対応する作品をすぐにも挙げることができる。まだ見ぬものを追い続ける果の永劫の哀しみは『百億の昼と千億の夜』で十分だという認識は覆されなかった。
そもそも彼らの探求行為が社会にどう影響したのかということが本書には見えない。取り残された地球社会がその後どうなったのだろうか。
私には同じ意思を共有し、議論なしで「先へ進もう」という結論が共有される社会(異星人、異文化であっても)はかえって危ういのではないかと思った。本書はこうした異論の余地のない集まり(まさに同好会・サークル的)が時間と宇宙の果てに行き着いたという話にすぎない。
ところで、本書は各章に「遠未来」「近未来」「遠過去」のセクションがあり、それぞれの関連を読み取るのは楽しい。ひと通り読了してから「遠未来」「遠過去」それぞれを順番に再読していくと納得が得られて満足感が高い。
しかし、私は「キャラクターが勝手に動き出す」とか「お筆先」みたいな書く歓び・読む歓びが小説にはあると思っており、こうしたハコ書きが一方では小説ならではのドライブ感やリズム感を削ぐこともあると感じた。
一気読みとして優秀な小説かもしれないが、物語は遠い未来や遠い宇宙の果てのことに過ぎない。それでSFとしていいのだろうかと思った。