映画『どうすればよかったか?』
医療系研究者の父と母、統合失調症の姉と映像作家の弟の4人家族。娘が精神疾患であることを認めようとしない両親によって適切な医療を受けられないまま、姉は人生の大半を自宅に引き込もることになる。そうした姉が発症してからの40年間を追ったドキュメンタリー作品である。
ポレポレ東中野は年末の午前中であったが満席。予約サイトによると連日そうだった。そして映画がスタートしてからずっとモヤモヤしていたが映画の終わりになって確信した。これはダメな映画だ。
娘が家族にカメラを持ち込んで作った家族ドキュメンタリーは分野として確立していると思う。家族という、本来ドロドロした空間と人間関係は娘でしか撮れないものかもしれない。父も母もかわいい娘のことならばと撮影・公開を許可することはある。
「アヒルの子」は公開の許可を家族から得るために何年もかかったという。しかもこの映画の場合は監督=当事者であった。彼女が裸でモノローグするシーンは何年経っても記憶に残る。
また、「ボケますから、よろしくお願いします」も東京でドキュメンタリー番組のプロデューサーをやっている娘が言うのならという父の気持ちはよくわかる。ガンになった娘=若いときの監督に微笑みを絶やさず寄り添った母の姿と対象的に、認知症が進んだ時期に「カメラをどかせ」と怒鳴る声もまた忘れられない。
この映画の場合、症状が進んでいく姉とそれに振り回される両親の様子をあからさまに映像化している。その公開の同意は姉、母は亡くなってからなので不可能。残った父はほぼ認知に問題があるのではと思われるほどの高齢になってからである。私はこの同意確認ではドキュメンタリー映画のフェアネスに問題ありと思う。
ところで本作品が連日満員ということにもイヤな感じを受けた。他人の不幸は…という言葉を思い出した。SNS界隈でも絶賛する声が多く、私は何か歯止めを失っているのではないかと懸念を覚えた。評論家とか批評家が真っ当な評価をするべきだと思うのだが、これがSNS頼りで評価される映像業界の底の浅さなのだろうか。
映画の中盤で思ったのは、姉も母も父も、彼(映像作家の弟)が「いつかこの映像を公開したい、このカメラはそのためのものなんだ」と言ってくれることを待っていたのではないかということだ。そうしていればまったく違った映画になった可能性がある。勝手な感想だが何かもっと美しい映画になったかもしれない。
私はこの映画の本筋とは別に彼が家族を撮影したときの感情の動き、またこの映画を公開すると決断するに至った工程にこそ興味をそそられた。