『吉屋信子研究』竹田志保/『女人吉屋信子』吉武輝子

吉屋信子の評伝『ゆめはるか吉屋信子-秋灯机の上の幾山河』(田辺聖子)を読んでからもう少し彼女について知りたくなって読んでみた2冊。

吉屋の作品は短編集『父の果/未知の月日』『鬼火 底のぬけた柄杓』を読んだだけであり、代表作の新聞小説は読んでいない。ただ、以下の評伝と論文を読み、この作家について激しく惹かれるものがあった。それは彼女の作品よりも彼女の生涯なのだ。

吉屋は明治29年生まれ。女学校時代に少女雑誌への投稿から文筆活動を開始した。大正8年に新聞小説の懸賞小説で1等当選を果たし、それからは流行作家として数々のヒットを飛ばした。戦前には最も人気のある作家となり、各方面(特に男性作家たち)が羨望するほど稼いだという。

なにしろその収入で生涯に家を9軒建て、パートナーと1年間フランスに滞在し、運転手付きの自動車も所有したというのだから当時としては桁違いの人気作家ぶり。

戦後も活躍は続き『安宅家の人々』『良人の貞操』『徳川家の夫人たち』など新聞小説の大ヒット作は映画化、舞台化が相次いだ。

しかし、これだけの実績のある作家にしては現代での評価がほぼ見当たらないのはなぜなのかとかえって訝しくなる。それは田辺や吉武の指摘では、生涯、通俗小説作家あるいは少女小説家の誹りを受け続け、文壇(特に男性)から評価されなかったからではないかとのこと。

確かに吉屋の作品はお涙頂戴の通俗小説かもしれない。しかし、通俗小説、純文学にもかかわらず彼女のすべての作品に滲み出ているのは女性への共感と応援である。常に自分を女性の側に置いて作品を作り続けたのが彼女の生涯。そこに私は惹かれたのである。

今どきの押しを応援するSNSメッセージのように当時の少女雑誌には投稿者への応援メッセージが読者から多く寄せられていたという。その全国のまだ見ぬ少女たちの声が女学校時代の吉屋の背中を押していたことは想像に難くない。吉谷は押しも押されぬ人気作家になってからも少女小説を書き続けていたのだから。

また、宇野千代、林芙美子など当時の女流作家たちとの交流も華やかなようでありながら仕事と恋愛と家庭のあれこれに押しつぶされるギリギリの生活。それをお互いに労い合うという空気が漂っていた。三宅やす子を死出の旅に見送った帰途、宇野千代が突然声高に放った「やはり仕事よ、よい仕事をするだけよ。私たちは」という言葉。彼女たちは常に崖っぷちを歩いているのだと感じていたということだろう。

それにもまして吉屋の人生において感動的なのは、生涯のパートナーとなった門馬千代との細やかな交流である。門馬とはまだ吉屋が人気作家となる前の東京での生活を模索している時期に出会っている。出会ってすぐに惹かれ合ったふたりであったがふたりの生活を固めるには紆余曲折があった。一時期は長崎で幸福な日々を送ったもののお互いに家族があり、それぞれの仕事があり、そのせいで東京と下関に別れて暮らすことを余儀なくされた。

吉屋の評伝や研究にはふんだんに私信が引用され細やかなやりとりが克明にされている。この別れて暮らしていた時期もそうだが吉屋が門馬へ甘え、すねる、門馬がそれをなだめるなどのやりとりの手紙は本当にいじらしく愛らしい。こうしたお互いに頼りながら、一方で自立しているといったふたりの態度は没年まで続いたのだ。「生まれ変わっても信子さんと暮らしたい」というのは没年になっての門馬の言葉である。

ところで吉屋の母マサは旧弊で冷酷な明治女のイメージで評伝では評価が低い。しかし、「嫗の幻想」という短編では戦中避難先でのマサの活躍が描かれている。食糧の買い出しではマサが特異な能力を発揮したというエピソードである。マサは気難し屋で知られる農家の老女と知り合って日清戦争における清国の将軍丁汝昌などの話で意気投合。貴重な食料を分けてもらっていたという。マサの活躍を吉屋が嬉々として書いていることに意外な思いがした。

吉屋研究は百合小説の源流として、また明治大正昭和におけるフェミニズムとしてなど注目を集めつつある。私はそれよりも自分の愛情の対象をしっかりと定め、それを生涯全うしたひとりの人としてその人生を尊重するべきでなのではないかと思った。