『秘儀』(上)(下)マリアーナ・エンリケス
2019年作というから現代のアルゼンチンのホラー小説。同国の近代史を背景に闇の世界を信奉する秘密教団と、それから逃れようとする霊媒師の父と息子の物語である。
血に塗れた歴史と教団の残酷な秘儀が渾然となって読者を恐怖に引き込み、昏い大河で悪意の潮流がうねるような感覚を読んでいて覚えた。
小説としては登場人物の事件や社会情勢・社会不安を描きながら世代をまたいだ群像劇である。
最初の章は1980年代。教団の支配から逃れようとする父フアンと幼い息子ガスパルのロードムービー。父の精神的にも肉体的にも不安定な状況とそれに怯えながらも慕う幼い息子の心情が痛々しい。
次の章はやや成長したガスパルの一見のどかな少年時代。父が精神的に不安定ながら友人らと少年らしく過ごす日々が描かれる。しかしそこにも闇の世界の手が伸びている。
次の章は打って変わって数十年遡りガスパルの母親(ロサリオ)のロンドンでの日々が描かれる。サイケ、パンク、LSDと自由な若者文化が街にあふれ、ロサリオは自由な空気に酔いしれる。しかし、そこにも闇の世界への扉が思いもかけない場所に出現する。
次章はあるジャーナリストが独自に調べた教団の秘密についての章。独裁時代アルゼンチンの教団と政府の関係の一端が明らかにされる。
そして最終章はティーンエイジャーとなったガスパルの青春時代である。アルゼンチンは政治の季節であり多くの虐殺が社会では語られない、見えない側で起きている時期だった。暴力、政治、エイズ。ドラッグ、ゲイムーブメントが彼の青春時代であった。しかしやがて教団の暴力がホアンの大事な者へ手を伸ばしたことで彼自身でその脅威に向き合うことを決断する。
いずれの章も当時のアルゼンチン社会の背景にあった暴力の空気が濃厚である。社会の昏い記憶をベースに描かれるホラー小説が多層的であり重厚なものになるのは当然である。
思えばこうした自国の昏い歴史をベースにしたホラーはいくつもあった。例えば台湾の白色テロ時代を舞台にした「返校」、日本でも松本清張の「日本の黒い霧」はそうだろうし、関東大震災で多くの朝鮮人が虐殺された事件、や共産主義者やアナーキストが虐殺された事件を素材にとったルポや小説、映画。さらに言えば太平洋戦争中の日本軍による多くの虐殺(731部隊)。
そしてそうした暴力的な歴史は現代進行である。コソボでもあったし、これからシリア、ロシア、イランでも描かれるだろうと思うと暗澹とする。しかし、なかったことにする訳にはいかない。読まなければなかったことになってしまうのだ。
ところで、『秘儀』でひとつ不満足なことがある。それここで描かれる闇の世界がこちらの世界にとってそれほど脅威ではないことだ。闇の力が現実の世界に影響するのはせいぜい教団のライバルを事故死させることくらいだった。こうした力があるのならもっと世界を思いのままにすることを夢想しそうなものだが。
だから、クトゥルフ神話のように圧倒的な力を前にした絶望感がこの闇にはない。彼らはまだ眠っているに過ぎない、この安逸はつかの間に過ぎないという絶望的な未来を暗示する方が余韻が残ったのではないか。
それとも作者はこの親子の旅とその結末を描くことがこの小説の唯一の目的であると思っているのかもしれない。それもまた私には納得がいくが。