チェルフィッチュ「わたしたちは無傷な別人である」@あいちトリエンナーレ2010
チェルフィッチュ「わたしたちは無傷な別人である」@あいちトリエンナーレ2010
予算配分からしても広報活動にしてもあいちトリエンナーレの本領はこっちにあるのでは?と思えるくらい充実しているパフォーマンス部門。その中でもオペラへの入れ込みはすごいらしいが、私は横トリで何度も見たチェルフィッチュにした。
書き言葉にならないようなセリフと無意味な手の動き、片足立ちは健在だったが、この作品はとにかくミニマル。
舞台セットは小さな掛け時計が掛かっている大きな箱が斜めに置かれているだけ。出演者も合計6名ほど。それも超フツーっぽい男の子と女の子たち。
ドラマは「男の人が、8月の最後の土曜日に道に立ってます。缶ビールを持って」という、きわめて興味をそそられない説明から始まる。
そうしたシンプルさが人間や社会の複雑性を織り込みつつ進行していくのかと思いきや、ドラマはそのまま希薄なまま最後まで進行する。
横トリで見た「フリータイム」では、一風変わった舞台セットに意識のつぶやきが重層的にこだまして、早朝のファミレという平凡な設定に非現実感を呼び込んだものだった。
チェルフィッチュの「フリータイム」@横浜トリエンナーレ
今回のミニマルでシンプルな舞台がどんな演劇の地平へ連れていってくれるのか、と期待したが、座席の硬さだけが記憶に残った。正直言って何度も眠りそうになった。
講演後、トークショーがあったらしく、ここで岡田利規から何らかの説明があったのではと思うが、新幹線の時間があり参加できなくて残念。
その帰りの新幹線で思い出したのが保坂和志の小説。
「プレーンソング」「残響」など、いずれもシンプルでミニマルであり、心のありようをつぶやくように記述する。どこから始まって、どこへ向かっていくのかもわからないような小説だった。
それで思ったのだけど、固有の作品として完結するアートと違って、演劇や小説という表現には時間の経過という必然がある。そして「経過」に、始まりと終わりという方向性が期待されるのは宿命です。
それが多くの旧態依然としたドラマには利点となり、多くの人々の時間を奪い、かつ満足させている。
だけど、私は新しい演劇がどうやってその「時間の経過」という宿命をずらしてくれるのかを期待している。それをうまくやってくれる手際をみたくてこうした新しい演劇のチケットを買うのです。
次回はその点で満足させてほしいと願っています。