映画「フェイシズ」
深夜のBSで観たニューヨークのインディーズ派、ジョン・カサヴェテスの1968年の映画。あまりのかっこ良さにしびれた。
中年の男、その古い友だち、若い女(ジーナ・ローランズ!)。
ハメを外しての盛り上がりと、それぞれのすれ違い。そのすれ違いが亀裂の入っていた夫婦への離婚のきっかけとなり、さらに物語は思わぬ事態に転がっていく。
ストーリーは重要ではない。画面に現れる役者の表情、セリフ、沈黙だけで、まったく緩むことのない緊張感が2時間強引っ張る。
エンドロールが流れた時は見てるこっちがぐったりするほどの疲労感。
いい脚本があって、いい役者にカメラとマイクを向けるだけでこんなに濃厚な映像を作れるという素晴らしい実例がここにあるのに、どうして今日のアメリカ映画は普通じゃない世界を映像にしないといられないんだろう。
人間って単純なものではない。それぞれの人生があってここにいるんだし、積み重ねた時間の分だけ陰影が深みを増すのだと思う。そうした普通の一人ひとりの人生へのリスペクトがこうした映画を作るのだろう。
その点で「ソーシャル・ネットワーク」のように、あまりに短い時間のうちに多くの成功を手に入れてしまった人生が、描くべき陰影を持ち得ないのは当然だろう。
この40年前の低予算映画を観て、あらためてそうした素材にばかりとびつく今日のハリウッドの浅薄さが浮かび上がった。