『ゆめはるか吉屋信子-秋灯机の上の幾山河』田辺聖子

『ゆめはるか吉屋信子-秋灯机の上の幾山河』田辺聖子

吉屋信子は大正、戦前、戦後と活躍した小説家である。信子はその生涯に膨大な作品を残しており、それに伴うメディアへの影響力は驚くほど大きいが、彼女が文学史で取り上げられることは少ない。今日では信子の注目度はほぼ皆無である。それは田辺が指摘するように信子が少女小説出身であること、女流作家であること、大衆文学の作家であることが理由であろう。しかし、それは彼女の文学的価値を正当に評価できない当時および現代の文学関係者の不明に過ぎないように思う。

本書は各巻400ページにもなる上中下巻。田辺は本書によって信子の幼少時代から東京での無名時代、投稿小説が認められて以降の活躍、戦中の戦地派遣、戦後の充実した歴史小説への仕事まで、彼女の全生涯と主要な作品を詳細にカバーしている。

私が本書で最も感動的に感じたのは信子を支えたパートナー門馬千代との細やかな交流についてだった。また、信子が女性の能力を信じ、自分と彼女らの仕事を通じて女性を応援することを忘れなかったことが胸を打った。

本書は吉屋信子の評伝ではあるが彼女の活動を描くことで当時の女流作家群像をも描いている。宇野千代、林芙美子、長谷川時雨。彼女らと深く交流した本人の信子ならではの体験もさりながら、田辺の資料読み(信子や千代の日記を含む)がしっかりとしたそうした交流の裏付けになっており読み応え満点である。そして、その膨大な資料を裏付ける下巻巻末の参考資料リスト、人名索引と作品索引もまた素晴らしい資料となっている。

このように充実した吉屋信子の評伝を世に送り出し、彼女の名声を永遠に留めんとした田辺の仕事を高く評価するべきだろう。

さて、信子の仕事はすっかり忘れられていると書いたが、SNSなどでは吉屋信子が再評価されているという。アニメやラノベなどで女性同士の恋愛(百合)が当たり前になり、その源流としてのエスが見直されているのだろう。高等な文学者が卑下した少女小説が百年近くを経て再評価されるとは愉快なことである。

本書で唯一残念だったのは上野千鶴子の解説。本文を読んでいるときには信子の活躍に突き抜けるような開放感を常に感じていたのに、上野の解説は信子の生涯をあくまでもフェミニズムの枠内で捉えようとしているかのようであり、そこに息苦しさを覚えた。信子の生涯は決して抑圧されたものではなかった。失望の連続でもなかった。フェミニストの上野にはそれが理解できなかったのだろう。