『水俣病闘争 わが死民』石牟礼道子編

『水俣病闘争 わが死民』石牟礼道子編

執筆者は石牟礼道子、渡辺京二など主要な人物はもちろん、それ以外にも患者、医師、弁護士、学生、記者など多彩なメンバーが原稿を寄せている。各章「患者の声」「闘いの原理」「闘争経過と背景」ごとに渡辺が解説を書くというアンソロジーである。

宇井純の「水俣病」は水俣病事件の発症から認定までの経緯。石川紀代子「水俣廟市民会議の人びと」は闘争に関わる人々について。福元満治「患者との魂の共闘をめざして」は闘争の活動とジャーナリズムの関わりについて。

また、水俣病に関わった医師と研究者の方向違いの考えが認定を長引かせ、その結果、患者たちの苦痛を長引かせたことはもちろん、地元の差別と対立という新たな苦痛を生じさせた。その経緯をまとめた宮沢信雄の「水俣病の概念をゆがめたもの」も読み応えがある。

というように本書は水俣病事件のほぼ全方位をカバーした包括的な一冊。決定版である。

以下は渡辺が水俣病闘争の本質的理由とその輪郭についてとした文章。

問題は水俣病闘争はそれをまともに対象とするかぎり、すべての参加者に日本近代社会の制度と論理を根本的に倒壊させる下層生活民の視点を強制せずにはおかないということにある。(p178「現実と幻のはざまで」渡辺京二)

一方で松岡洋之助は新潟イタイイタイ病裁判判決を患者置き去りと批判する。

テレビの中継が終わる頃、川本輝夫さんが来た。彼は一言、言い放った。「患者が名を取って、昭電が実をとったばい」。
(中略)
支援団体の歌声と川本さんの発言の間にある裂け目は、新潟裁判の本質を表現している。川本さん的に言えば、支援団体の勝利、患者・家族の敗北とでも言えようか。(p225「勝利の苦い果実」松岡洋之助

これを引き取って渡辺は以下のように総括する。

例えばイタイイタイ病、四日市喘息、カネミ・ライスオイル、森永砒素ミルク、サリドマイド奇形児などをうって一丸とした全国公害闘争を拒否する理由はここにある。
(中略)
何とか内閣はひょっとすれば倒壊するかも知れない。そしてその結果、公害を解決することは資本制の枠内で可能であるという、支配の理想的命題が実現に一歩近づくわけである。
(p254「私説自主交渉闘争」渡辺京二)

つまり、公害闘争を企業への責任と保証という範疇に収めることへの批判である。公害闘争は本来、近代資本主義への批判であるべきであり、それは地元下層民への義理と人情を出発点とするべきという主張である。

つい今年(2024年)水俣病患者と環境大臣の懇談会で、患者の発言中にマイクをオフにするという事件があった。大臣と環境省側は謝罪に追い込まれたわけだが、相変わらず国家側は制度を維持することが大事。一方、家族と自分を不具にされた患者側はその長年の苦しみを理解してほしいという気持ち。

これはその対立構造が半世紀以上経っても変わらなかったことが明らかになった事件だった。公害闘争支援は患者ひとりひとりの苦しみを出発点にしなければならない、と本書で多くが異口同音に繰り返し述べているにも関わらずである。

ところで、本書は資料編も充実している。渡辺のあの有名な座り込みチラシはもちろん、一株運動に反対の立場を取った弁護団の意見書、水俣市の市民有志による「患者さん会社を粉砕して水俣に何が残ると言うのですか!」も掲載されている。

この資料編からはこの事件を忘れない、世間にこの事件を忘れることを許可しないという決意が感じられた。その場の空気で患者を非難した言葉がいまだにこうしてあることは水俣市民有志からすると不本意だろうが。

ひとつ本書に期待したいことがある。せっかくの改訂版なのだから各執筆者のプロフィールが欲しかった。