「アートイベント」一覧
展覧会情報現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展 ヤゲオ財団コレクションより
展覧会情報現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展 ヤゲオ財団コレクションより
現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展@東京国立近代美術館
いわゆる個人コレクターのコレクション展。近美の企画展には失望したことはほぼないのだけど、これはちょっとがっかり。コレクターのとりとめのない趣味を見せられただけのような印象。
キャプション上段が取引的価値について、下段が作品的価値についてという構成は面白かったが。
結局、個人のコレクション条件(投機的価値とかセンスとか)が展示会として成立するのかという問題だ。お金持ちの家に行って、そのお金持ちが見せたいものを見せられて居心地よくいられるものだろうか。美術館に行って満足の行く鑑賞ができるのは、美術史の裏付けがあるからだと再認識した。
小ギャラリーの「美術と印刷物―1960-70年代を中心に」の方が当時のイベントのチラシなどを展示していて楽しめた。
2014.7.5 – 8.31 戦後日本住宅伝説—挑発する家・内省する家 – 埼玉県立近代美術館
2014.7.5 – 8.31 戦後日本住宅伝説—挑発する家・内省する家 – 埼玉県立近代美術館
戦後日本住宅伝説ー挑発する家・内省する家@埼玉県立近代美術館
前評判に惹かれて行ったのだが、わざわざ北浦和まで行くこともなかったという結果だった。
美術館は、建築展とは建築物を作品として見せる展示会なのかという疑問から出発してほしい。美術展と違い、そうなると実物を設置するわけにいかず、モデルと図面、写真とビデオを設置するしかない。
東孝光「塔の家」の実寸図面を床にしたり、「中銀カプセルタワービル」の実物ユニットを庭園に(これは以前から設置されていた)設置したりと、工夫はあるものの展示会として驚きがなかった。
近美でやった「建築はどこにあるの?7つのインスタレーション」展は、もはや建築展ではなく建築家にインスタレーションという作品を制作させて、作家としての建築家のエッセンスを表現する試みだった。
美術館ないしはホワイトキューブで建築を表現するときには、建物そのものを作品とする考えを改めないとならないのではないか。
ある子供向け建築ワークショップの流れで、建築家の自宅公開プログラムがあり所沢まで行ったことがある。普通の住宅街にひっそりと挑戦的な住宅があり、そこで暮らしている家族がいることに感動した。建築をみるとはこういうことかと感じ入った。
世田谷文学館 – 文学を体験する空間
茨木のり子展@世田谷文学館
世田谷は区立美術館もでっかいし、美術館の分館も3つもあってさらに文学館もある。どれもしっかりと地元に根付いている感じがしてうらやましい。
それで初めてこの世田谷文学館に行ってみた。そんなに大きくないのだが居心地のいいオープンスペース、ミニホールも開放的。常設展も企画がしっかりとして、よくある展示しっぱなしの常設とは一線を画している。
そのように建物もいいのだけど、ここにたどり着くまでの駅からの道程がまた気持ち良い。整備された並木の歩道に低層の高級マンションが奥まっている。たぶん景観条例があるのだろう。
区立の文化施設がハコだけでないためには、地域住民に愛されることが大事。そのためにこそ周辺地域の開発にも自治体が口を出すことが必要になる。世田谷区の芦花公園はそのモデルになるのではないか。
ところで茨木のり子展について。詩人の人生をまんべんなくカバーした展示会で、かなり詰め込んである印象。詩にしても手紙にしてもかなり読むことになるので滞留はしかたがない。私もじっくりと読み込んだ。
一番興味深かったのは詩人たちの交流についての資料。
連詩第1回「載り墜つ浅葱幕の巻」(1971)は京都白河院で川崎洋、大岡信、吉野弘、谷川俊太郎などが参加した詩作。大きな巻物にそれぞれの筆で数行づつ。ガラスケースに見えているもの以外にもあるらしく、続きが見たいと心から思った。
そよぐ山羊髭
<田舎の学問より京の昼寝>
にしんそば すすりつつ
かの諺 半ば憎み 半ばうべなう
というのが茨木のパート。
先日、近美でみた田中功起の「ひとつの詩を五人の詩人が書く(最初のこころみ)」というビデオをみて詩人の連作の現場に興味を惹かれたのだが、その成果を目の当たりにできてさらにかきたてられた。
それにしても当時の文化人は多くの手紙や葉書をやりとりしたものだ。
「櫂」設立時の川崎洋との手紙のやりとりは、内容もさることながら文字や便箋も格調高い。手元にコピーも残さず、事務的手続きを粛々と行うという信頼をベースにしたやりとり。そして、書き直しをしないで一気に書くという行為。
今日、それに置き換わったメールによって何が失われたのかが、物理的に見えた気がした。
猛烈に手書きで誰かに手紙を出したくなった。
展覧会情報映画をめぐる美術 ――マルセル・ブロータースから始める
展覧会情報映画をめぐる美術 ――マルセル・ブロータースから始める
映画をめぐる美術――マルセル・ブロータースから始める@東京国立近代美術館
うかうかしてると終わっちゃうので行ってみた。ここしばらくでは一番おもしろくて、こんな面白いもの見逃すところだったのかと安堵。
タイトルのマルセル・ブロータースという人は知らなかったが、今回の展示会で特に重要なわけではないと思う。近代から現代にかけての映像とテキストをモチーフとした作品群は、ひとつひとつがアートとしてじっくりと楽しめる。
アナ・トーフの「偽った嘘について」という作品はフィルムスライドとテキストによるもの。スライドは中年の女性の憂鬱そうな表情を次々と映し出し、ときおりテキストが挟まれる。それにはジャンヌ・ダルクが異端審問のとき聞かれたことが書いてあるらしい。
カシャッという音とスライドのタイミングは観客にモノを考えさせるのに適していることに気がついた。ビデオやパワポのスライドとはまったく違う映像体験。プレゼンをするときに心がけようと思った。
それから西欧人はジャンヌ・ダルクといえば、改革、女性、悲劇、歴史などをすぐに思い浮かべることができる。それであの削ぎ落とした構成でも、すぐに作品の深みを感じ取ることができるのだろう。日本の歴史的人物ならそれは誰だろうとも考えた。利休?
ヨコトリ2014でもスライドを使ったパフォーマンスがあるそうだ。映像とパフォーマンスをつなぐこのテクニックは、いま見直されているのかもしれない。
ピエール・ユイグの「第3の記憶」は、映画「狼たちの午後」のベースとなった実話の銀行強盗を取り上げたビデオ作品。銀行強盗本人を現場のセットに連れてきて、事件の再現を行う。
当時から時間が経っていることもあるが、映画化されており本人がそれを見ていることもあり、現実からかけ離れた部分もある。それが映画のシーンやニュース映像を挿入することで明らかになる。
つまり自分の記憶と、映画の記憶と、映画によって歪められた記憶が映像として展開される。映像としても楽しめるが、読み取りの深さという楽しみもある。優れたドキュメンタリー。
アルバニアの映像作家アンリ・サラの「インテルヴィスタ」は、学生のときにみつけた母親が映っているフォルムについての追跡ドキュメンタリー。母親は当時、共産主義国だったアルバニアで革命闘士だったのである。そういえばフェリーニに同じタイトルの映画があったな。
このフィルムには音声がない。それで何をしゃべっているのか知りたくなった彼は、読唇術の専門家に読み取りを依頼。すると意外な事実が判明する。
過去を記録するフィルムと記録されている本人の認識の差、思い出したくない過去とそれを追跡するジャーナリズムなど、多くの問題をあぶりだす作品だった。
ミン・ウォンのシンガポールの豪華な映画館の写真集は以前、写美でみた。そのとき聴いたアジアの映画産業に日本の占領期が残した遺産についての講演会が面白かったのを思い出した。
資生堂ギャラリー以来お気に入りのダヤニータ・シンは、「ファイル・ルーム」というインドのアーカイブルームの写真集。うずたかく積まれて探し出せそうもないファイルの山を見ていると、タブッキの「インド夜想曲」の病院を思い出す。
ああいうファイルの山を見ていると、むしょうに整理・分類したくなってくるのは自分が日本人だからかな?
田中功起の部屋がいちばん狭くて細長くて居心地が悪かったのだが、「ひとつの詩を五人の詩人が書く(最初のこころみ)」というビデオを最後まで見てしまった。あれは70分近くあったのか。
タイトル通り五人の詩人が集まって、いろいろなやり方で詩を作るのをとらえたビデオ作品。関心したのはカメラワークなどプロダクションの本気度。
テーブルの周りにドリー用のレールを敷いて、セカンドカメラ、サードカメラを設置。録音も本格機材でスタジオ録音のような鮮明さ。詩人たちが創作するというスリリングな行為を心地よく集中して鑑賞できて大満足だった。
それはつまり、これだけ本気で詩人の行いを映像に収めるという行為はこれまでされてこなかったということである。制作それ自体があっぱれなことなのだ。
田中は作家なんだけど詩人じゃないので映像には登場しないところもいさぎよい。これは昨年のベネチアビエンナーレの出品作。
それにしてもいつもの特別展のスペースの半分しか使っていない。映像作品の展示会なのだから隣の音が聞こえないように広く使えばよかったのにどうしてだろう。
アイザック・ジュリアンの3面マルチの作品も狭くて壁に貼り付いてみることになってたし。そこが残念。
今回の常設も映像作品づくしで、私はじっくりと楽しみました。
小ギャラリーでは藤井光という方の高画質映像が戦慄した。美しい木立を明け方からしばらく定点カメラでとらえたもの。しかし、これは福島第一原発から数キロの位置で、その美しさとはうらはらな放射線量のカウントが表示されるというもの。
あと、大友良英らがかかわったプロジェクトFUKUSHIMAのドキュメンタリー映像があった。巨大風呂敷のステージが感動的。あとチンポムがいくつかあったがいつものようにスルー。
3Fの映像ルームで見た岩波映画社の映像風土記「長崎県」が楽しめた。軍艦島(端島)の最盛期の映像も貴重だが、大村の入国センターの映像は帰国事業が始まる前のことで、この事業が動き出す大きなきっかけとなった事件である。
絵画では北脇昇の初見がいくつかあったのが収穫だった。
展覧会情報コレクションを中心とした小企画: 泥とジェリー
泥とジェリー@東京国立近代美術館ギャラリー4
常設は前回訪問時から変更なしなので駆け足で通りすぎて小企画の「泥とジェリー」へ。
近美の小企画はテーマを決めて収蔵品から展示するというもの。学芸員という鑑賞のプロはこうして見るのかといつも勉強になる。
今回は泥とドロドロというマチエールとテーマを重ねたものだった。
ドロの方は岸田劉生の有名な土のむき出しの坂道から、泥から生まれた人間を描く天地創造。白髪一雄の足で大量の絵の具をドロドロと描くパフォーマンスの映像など。
一方でジェリーらしかったのが岡崎乾二郎の長いタイトルの作品。これは油絵というのはこんなにいつまでも色もマチエールがみずみずしいのかと驚いた。
あと、岡崎の絞り出した粘土をそのままねじって置いただけのようなドロンとした立体作品。これも地肌は荒いのにやはりみずみずしい。形態の潔さがそうと感じるさせるのか。
展示ではこの立体作品が多数出ていて、強烈な印象だった。いままで見たことなかったが、忘れられないものになった。
最後は先日まで常設フロアーにあったナンシー・ホルトとロバート・スミッソンの「湿地」というビデオ作品。これは毎回じっくりと見てしまう。
フィルムカメラを持って男性と女性がアシの茂った沼地を歩きまわるという映像で、人物は声だけで画面には出てこない。
カメラを持つ女性に男性があっちにいけとかこっちだとか言って、刺が刺さったとかぬかるみに足がはまったとか声がする。
これがアートだと思っている男性と「やれやれ」と思っている女性の様子が微笑ましい。映像アートの制作現場ってこんなだろうなと思う。
美術館をひと通り見て、まだ早かったので千鳥ヶ淵の桜を見て帰った。すごい人出だった。
MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり
MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり@東京都現代美術館
若手作家によるグループ展。数年前に小さなアートスペースで見たことのある作家がいて感慨深い。
髙田安規子・政子(双子姉妹らしい)は日用品を素材にした小品。
軽石を削って作ったローマのコロッセオがホーロー引きの洗面器に入っている。はかなくて息をするのも気になるくらいだった。
あと、地面や壁のコケを削って迷路を作った写真も。いずれは消えてなくなってしまうこちらの方がコンセプトに近いかもしれない。
宮永亮の映像作品は見ごたえがあった。
田んぼ、河川、ビル群、高速道路、日本のありふれた風景を破壊的に加工した映像とノイズにあふれた音響。ありふれた作りなのだが、アートとしてみると尺やカットの切り上げ方が絶妙で飽きない。10分位の作品なのだが3回見てしまった。
あちこちで見ている福田尚代は新しい作品はなかったようだ。
消しゴムを辺だけ残してくり抜くとか、原稿用紙を升だけ切り抜くとかの、モノを微細に加工するという根気のいる行為を延々とできるという能力。それが作品として成立するための美意識がある。
そして、その成果が作品として認められるということは本当に幸せなことだと思う。
ショップで福田の回文集も買った。回文であることと同時に優れた詩として成立している。思えばこれも美意識に基づいた根気のいる創作行為だと思う。
吉田夏奈はオペラシティでみた。そのときからモチーフは変わってないが表現手法は立体へと変わった。あざみ野ではすでに立体への取り組みがあった。
吉田の作品を見ると、本人が野山や島という場所に実際にいたことが伝わってくる。
思えば昔から野山に分け入る表現者はたくさんいた。ソローとか串田孫一とか。吉田はその係累かと空想するのも愉しい。
パラモデルの部屋が面白く無いのは何故なんだろうと考えてしまった。
化学系や物理系のラボがアートじゃないのに美しいと感じるときがある。それはすべてのアイテムが大きな目的に向けて整理されているからなのだろう。この部屋にはその方向性や目的がなかった。
常設に塩保朋子の大作があった。切り抜きから漏れる光と影が大きな展示室にかかって迫力だった。ちょうど子どもツアーの最中で、おとなしく聞いている姿が微笑ましい。
ピピロッティ・リストの昼寝テントがなくなって、代わりにアピチャッポン・ウィーラセタクンの「エメラルド」がかかっていた。たぶん歴史のあるホテルの部屋に舞う綿毛のようなものと家族の会話というもの。
かなり昔に現美の小さな部屋で見たことがあるが、あらためて見ると胸にしみる。場所の記憶は永遠に漂うということか。
シャジア・シカンダー「やむことのない煽動」は何度見てもいい。
小さな紙片にインクで描かれたものの組作品。いずれも音楽と死をテーマにしている。さわやかな色使いと形象に惹かれて見ているとじわじわと恐ろしくなってくる。
企画展の方が印象が強くて常設が楽しめなかった。近頃では同じ日にいくつも回るよりひとつのイベントを反芻しながらすごしたい。
篠原有司男のあたりにあった新宿のバーについての記事がとても興味深かったのだけどそんなことでスルーしてしまった。いま考えるともったいない。
あと、「バス観光ハプニング」とか「他人の顔」の展示も同じく。近いうちに常設だけまた行く。
ミュージアムめぐりは久しぶりなのだが、やはり美術館はかなり楽しめることを再確認した午後だった。