チェルフィッチュの「フリータイム」@横浜トリエンナーレ
昨日は横浜トリエンナーレのボランティアで演劇の誘導員のボランティアやってきました。場所は赤レンガ倉庫会場。出し物はチェルフィッチュの「フリータイム」。
仕事自体は開演2時間前に整理券を配布し、開場前に順番に並べて入場させるだけ。で、始まったら普通のお客さんとして演劇を鑑賞できるというオイシイもの。一日2回公演なので2回も見てしまった。
「フリータイム」の舞台装置はこんなの。
http://torafu1.exblog.jp/8486302/
ファミレの床1メートルの高さを人の精神が浮遊している感じだと思う。
出てくるのは、出勤前の30分を自分の時間としてファミレで過ごすことを大事にしている派遣OLとか、朝のシフトに必ず入っているバイトのウェイトレスのさいとうさんとか、飲み屋で徹夜して行くとこなくてたむろしている男の子ふたりぐみとか。
そんな朝のファミレのドリンクフリータイムに偶然いあわせた人々が、それぞれの生活や過去や状況について心に浮かんだことをつぶやく、というお芝居。
セリフは人に聞かせるためでなく心に浮かんだことなので当然まとまってない。それにほとんど掛け合いがない。ダイアログじゃなくてモノローグ。
役者同士が掛け合わない。それだけでも、こんなお芝居いままであった?ってとても新鮮。
しかも、その言葉が普通以上に普通っぽい。
「ということでフリータイムを始めます、始まります、始めます。」
「なんかホントに黒いなと思って、影、自分の」
とか。
もちろんそれだけじゃなくて、それらのモノローグから人生の機微やおかしみがあるんだけど、私が感心したのは、そんな他人同士が心の中で思っていることをつぶやいているだけのような空間と時間が意外と寒々としていないこと。
朝のファミレに居合わせた人々にある暖かく適度な孤立。
決して交わらない他人同士の空間にある誰も気づかない共有感。
そんなものを感じ取りました。
セリフで語りつくす芝居では伝えられない「何か」を、空間と時間で表現する。
これまでにない演劇でした。日本の演劇ってここまで来ているのかとめまいを感じるくらいです。
いい時間を過ごしました。(2回も見たし)
それにこの作品が普通の公演じゃなく、現代アートのパフォーマンスとして演じられたことも意味や効果を高めています。
一人一人がモノローグして空間と時間を構成して行く、生きたインスタレーションのようにも感じられました。
開演前に会場で待機してたら、ストレッチ中の役者さんたちが「おつかれさまー」「おせわになりまーす」と声をかけてくれた。気さくなお兄ちゃんお姉ちゃんたちです。
また、1回目の公演の後でフラフラしてた役者さん(さっきまで舞台で演じていた)に「どうしてテトラポットが忍者なの?」とどうしても気になったことを質問したら、一生懸命答えてくれた。
2回目の公演が終わって楽屋に荷物を取りに行ったら、役者が演出家にダメ出しをされているところに遭遇したりして、ボランティアをやったおかげでなかなかできない経験をさせてもらいました。