映画『いま ここにある風景』

眠い!「いま ここにある風景」

ドキュメンタリー映画が好きで、それなりに耐性はあるはずなんだが、この映画は眠かった。挑戦されているのかと思い、がんばったが瞬間的に意識がなくなる時があった。

エドワード・バーティンスキーという写真家は、鉱山開発などの産業よって変貌を余儀なくされた風景を取り続けている。この映画は、彼の中国の産業風景をテーマにした写真集「Manufactured Landscape CHINA」撮影のドキュメンタリーである。

写真そのものを見て興味津々、どんな風景が展開するんだろうと思って観にいった。
しかし、知っておくべきだったのは、この映画は「エドワード・バーティンスキーの映画」ではなく、「エドワード・バーティンスキーの撮影を追っかけた映画」だったということ。

オープニングの長廻し以外は多分ビデオで撮ったのだろうけど、とにかく映像の画質が悪い。同じビデオ撮りドキュメンタリーでもマイケル・ムーアは全然気にならないのに。

しかも音楽がアルファ波の発生を促進するような環境音楽。
低画質の情報量が少ない映像と環境音楽ですよ。いつまで目を開けていられるか挑戦されているのかと思いましたよ。

まあ、映画このとはともかく、バーティンスキーの言葉にはうなずけるところが多い。

「自然破壊だと訴えれば、人は賛成や反対をするだけ。逆に言葉にしないことで、人は見えなかった何かや違う世界を見られる」

「良いとか悪いとかの問題じゃない。全く新しい発想が必要なんだ」

「車のガスを満タンにしてプラスチックのハンドルを握って石油開発の問題映像を撮影しに行く。石油はすでに私たちの生活に密接に関わっている」

私は、日本ってかなり環境が語られている社会なんだと思います。だから、環境問題を考える時に賛成・反対から議論するだけの時期はもう過ぎたんじゃないかと思う。

もちろんきちんと科学的に、政治的にどうするのか議論して欲しいけど、それ以外の視点を持つ心の余地もあっていいと思う。そしてその「別の視点」を提供するのがアートや文学の役割なんだと思います。

確かに破壊されつくした三峡ダムの都市の風景は寒々としたものだけど、同時に戦慄するくらいの美しさもある。良いとか悪いとか言う前に、この景色を作り出した人類の営みとしての産業というものについて何かを感じるべきではないかと。

最近のドキュメンタリーと言えば「不都合な真実」「ダーウィンの悪夢」「いのちの食べかた」がヒット。私はこのうち「不都合」以外は見てる。

この中で唯一感心したのは「いのち」でした。語りなし。音楽なし。ただ事実だけを映像で表示するだけのスタイルに清冽さを感じた。これに関しても近いうちに日記に書かせていただきます。

話しは変わりますが、「いま ここにある風景」は東京都写真美術館の映像ホールで観たんです。
この劇場は初めてだったんだけど、さすがに豪華だった。そこらへんのシネマコンプレックスより椅子が良くて隣との間隔も広い。やっぱり東京都の施設は立派ですね。

アート系の映画と言えば、イメージフォーラムの狭くて硬い椅子が当たり前だったんだけど、様変わりを感じました。

あと思ったのは映画を観にいくたびに見せられる「ノーモア映画泥棒」。あれってもうちょっと真面目に本気出して作ったらどうかと思う。

暇してる映像作家にノーギャラでって言ってもいいんじゃないか。だって、全ての映画館で毎回写るんだから、露出としてはすごいことじゃないですか。

などとつらつら思いつつ帰った一日でした。