年齢や実績、表現手法に多様な作家6名によるグループ展。キュレーターの意識が顕になるこうした展示会は好み。それぞれに大きなスペース(とおそらく大きな制作費)を与えての贅沢な展示は、見る者の気持ちもリッチにさせる。
最初の部屋は田村友一郎。米国の田舎町のナンバープレートというモチーフから始まり、それが「Oar(オール)」>「All(すべて)」という認識へとつながるインスタレーションと映像の表現構成は見事。映像も最後まで楽しめた。
ミヤギフトシのパーソナルな写真作品と音声も広い部屋のどこで聞こえているのかと探すのが楽しい。
ベルリンオリンピックと原爆材料となるウラン、その日本への輸送計画をモチーフにした小林エリカのインスタレーションもよかった。テキストと巨大な映像、写真にオブジェと「読ませる」という意味では最も「文学」っぽい表現だった。
一転して豊嶋康子はクラフトマンシップにあふれる作品群で、ものづくりと手作業の感覚が伝わる。見ていて最も心躍る部屋。
山城知佳子は30分間の映像作品のみ。今回のは演出と物語性の多いものだった。その分映像の力はなかったような。
見るに耐えないが忘れることも許さないような写真群が北島敬三の部屋である。1980年代に東欧で撮ったポートレートはどうしてこんなに醜いのだろう。どの人物もニコリともしていない。わずかにふたりほどがうっすらと微笑しているがそれも気味が悪い。こうした印象が対象によるものか、それとも撮影者によるのかを考えさせる。「美術と文学」の本質を探ることを見るものに呼び覚ますという点ではこちらが遥かに優れている。
タイトルに「文学」を冠してこうした作家を呼んだキュレーターの構成が素晴らしいのか、それともまず作家を決めてからタイトルを後付けしたのか判断できないような展示会だったが、十分楽しめた。金曜日の夜は21時までというのも(人が少なくて)良い。