『春にして君を離れ』アガサ・クリスティー
珍しく読んだことのないクリスティー作品で世間の評判が高かったので試しに読んでみた。
時期は第二次大戦前、裕福な英国婦人(おそらく40代)が末娘の病気見舞いのためにイラクに赴く。病気は大したことはなく数週間で帰路につくのだが、天候と列車事故によって辺鄙な砂漠の土地に何日も閉じ込められることになる。
そして、たった一人で話し相手もなく時間つぶしの方法もなく、否応なしに人生で初めて自分の内面に向き合うことになるというストーリー。事件はないのでミステリーではない。
この婦人はつまり家族や友人に自分の認識を押し付けることしかせず、家事・雑事の忙しさを理由に現実に向き合ってこなかった。それがぽっかり空いた自分について考える時間を経て精神的転回(多くの聖人が荒野で体験したように)をする。
当時はそれなりにショッキングなストーリーだったのだろうが、現代で言えばアスペルガー症候群とか学習障害をモチーフにした、他者への共感を持てない空気を読めない人に関するありふれた物語である。
読んでいて私が不満足だったのはこのような人が幼少期にどう過ごしたのかの記述が極めて少ないことである。その親や兄弟は当然感づいていたはずで、彼女の症状の原因とも言えるこちらの方が小説としては興味深いのではないだろうか。
また、この夫がどうして彼女に惹かれ、結ばれたのか。そして、小説ではこの夫、つまり父を娘や息子は深く敬愛しているとされているが、そんなことがあるだろうか。自分の希望を捨ててアスペルガーを疑われる妻の希望を採って気にそまない職業に就き、機能不全家族の原因に向き合おうとしない父親のことを家族が無条件で尊敬するものだろうか。
私には英国繁栄最終期のロマンチックな中年女性の精神的危機という作者の意図を、今日ではありふれた精神疾患の症例として見てしまうことが文学的進歩だろうかと読後に疑問が残った。