『都市』クリフォード・D・シマック
半ば埋もれかけた1950年代のクラッシックSFだけどあることで思い立って再読。文庫版は以下だけど実際は図書館で世界SF全集(早川書房)を借りた。
交通機関と通信手段の発展により人間が都市から離れていき、やがて人間同士の縦帯も忌避するようになる。そして人間であることからも離脱し、木星の環境に適した、しかし高度な感覚を持つ生命体へと自ら変換していくことで、その結果人類が滅亡。
地球を引き継いだのがわずかな人類の生き残りとミュータント、ロボット、そして犬族である。そうした一万年に渡る地球史のストーリーを、人類のターニングポイントごとに選択を強いられる宿命のウェブスター家、そのウェブスター家に忠実に仕えるロボットのジェンキンズ、ミュータントのジョオなど多彩な登場人物で描いたのがこの小説である。
しかし、なぜか読み終わってみて強烈に想起されたのがジェームズ・ボールドウィンの一連のノンフィクション。考えてみればハードSFの黄金期である1950年代から60年代は公民権運動の季節でもあった。
慈悲深く人類の行く末を案じる白人の支配層と彼らに献身的に仕え、歓びを持って黙々と手間仕事に精を出すロボットや動物たちの構図は、そのままボールドウィン指摘するところの「ニグロに敬愛される白人」にあてはまる。つまり、あくまでも白人から見た「偉大な国には人種差別はない」という図式である。
滅びゆく人類とロボットと知的な犬類という当時は素直に楽しめた牧歌的なSFを、相変わらず理想の未来とはほど遠い現代から照射すると素直に読めなくなってしまうのは仕方のないことか。あらゆる作品は歴史からの評価を逃れ得ないということだろう。
ところで、本書では圧倒的な感覚をもたらす木星の生命体ローヴァーとか、ミュータントの現世超越的な態度など、当時のヒッピー文化の香りが漂うところもまた魅力的である。
また、本書は動物との共生を描いたSFとしては忘れられた傑作のひとつである。犬なら「都市」(シマック)、猫なら「夏への扉」(ハインライン)、イルカなら「スタータイド・ライジング」(ディビット・ブリン)という風に。
これらはいずれもそれら動物と人間との共感に基づいて描かれている。これらの小説を何度も読み返した自分からすると「新世界より」(貴志祐介)の悪意さえ感じられる動物への忌避感には共感できないのだ。やはり、既存の名著は読んでおくべきであるとあらためて思う。